2016年11月20日

『いやな気分よ、さようなら』、デビッド D. バーンズ 満足―予想表 (日記です)

2016/11/20(Sun)
19 40-21 00
振り返り インターネットダラダラ

21 30-22 00
予定 シャワー
振り返り シャワー

22 15-23 30
予定 小学生英語
振り返り リコーダーP-5(とても楽しく満足した)

 今日は何もする気がなく、ダラダラ、インターネットをしていたけれど、リコーダーを吹いてみる気になった。昨日の合唱を聞きに行って、心に触れるというのを実感したので、やってみたかった。予想以上に調子もよく楽しかった。

 交通機関や図書館では目をつけられて、狙われているけれど、撥ね返せてはいる。だから文句もない。腹は立つけれど。

 調子の悪い時期だから自分には期待できない。本は読む気にならなくても、縫ったり吹いたりできるかもね。それもだめならどうなのだ?
 

 昨日は帰ってきて、チョイスだけみて、寝てしまった。何もしなかった。織り教室と合唱、図書館が主な活動だった。家では何もせず。活動には満足した。

2016年11月18日(金)

18 30-19 00
予定
振り返り いやな気分よさようなら

19 30-20 00
予定 DVD
振り返り 風呂P-3(楽しんだ、暖まった)

20 00-21 00
予定 いやな気分よさようなら
振り返り 父の衣類の整理 P-3(お古のダウンジャケットをもらった・人の服の整理も悪くない)


21 00-22 00
予定 リコーダー 国語ドラえもん辞書
振り返り 母と父について喋った(父は施設にお試し5日間出かけた)

22 00-23 30
振り返り インターネットダラダラ



2016年11月17日(木)

『いやな気分よ、さようなら』、デビッド D. バーンズ、星和書店、1990

第五章 虚無主義:いかにして克服するか

満足―予想表

引用+(kurage0147130):p102~106:

図5-5 満足―予想表

日付
2016/11/19(Sat)

満足を求める行動(やりとげた感じ、あるいは楽しんだ感じ)
 演奏会に行く

誰と一緒に行動したか(一人なら一人と書く)
 一人

予想される満足度%(行動前に書くこと)
 50%

実際の満足度%(行動した後に記録すること)
 70% 

 バロック音楽のコーラスを聞きに教会に行った。

 初めての場所だった。僕が予想していたよりレベルは高かった。音楽活動をしてコンサートを開けるなんて、幸せな人たちだなと感じた。

 Morten Lauridsen作曲の O magnum mysteriumと、成田為三作曲の浜辺の歌がよかった。

 ベンチ椅子が硬く、座布団があったけれどきつかった。疲れていたし、織り教室の後なのでなおさら負担にもなった。新しい経験はできた。

 歌声に肉声の温かみが感じられた。心に触れる気がした。合唱の響きが良かった。弱い音の重ねる感触が心地よかった。
posted by kurage0147130 at 23:42| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年03月27日

荘子 養生主篇 3



2016年3月27日(日)
荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎

内篇 第三 養生主篇
p80~81

3

 公文軒(こうぶんけん)と右師(うし・刑罰で足を切られた人)の会話。


(引用:p80:森三樹三郎:「~天命で、こうなったのだよ。人間がやったわけではない。天がわしを生んだときに、一本足になる運命をくれたのだ。だいたい人間の顔かたちというものは、すべて天から授かったものだ。~」)


(引用:p81:森三樹三郎:「*~一本足にしたのは人間である。しかし人間をそうさせる背後には、天命があり、運命がある。運命への随順ということは、荘子の根本思想の一つである。」)


引用者:kurage0147130:足を切られたのに人や天を憎まず、運命だと受け入れる。

 僕は統合失調症だけれど、調子の悪い不利な日は、周りに殴られそうな日には、周りをコノヤローと思い呪っている。


 僕のこの不利な日を呪わないで、天命によって僕の調子の悪さはあらかじめセットされている(僕の調子が悪くなるから周りに攻められるのではなく)=天命であらかじめ調子が悪く攻められるように僕はセットされた人間だと受け入れる回路をもてば明るくなるだろうか?


 統合失調症にこれをあてはめると、僕の調子が悪くなるから不安定で居心地が悪いのではない。


僕が統合失調症になり・不利になったり責められるのは天命により与えられた僕の権利だ=僕は統合失調症になる権利を与えられた=僕は統合失調症をやる、またとない権利を与えられた、そういう存在だ。
僕は、統合失調症という権利もち、楽しむための機会を生かすべきだ。天に統合失調症を感謝しよう。僕の人生に与えられた、よい機会だ。


 荘子得意のひっくり返す見方だ。
エビリファイを、一日12mg飲んでいるおかげかな。
お医者さん、どうもありがとうございます。



posted by kurage0147130 at 19:09| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年03月25日

お知らせ(いつも読んで頂いてありがとうございます・ ・こちらは滞ります)

お知らせ

 いつも読んで頂いてありがとうございます。

 荘子・老子をアップしてきましたが、自分の心の問題に重点的に取り組みたいと思っています。
 それで、こちらの荘子・老子のブログの方は進むのが遅くなります。(アップの回数が減る)
 今までもやらない日が多かったのですが、さらに進むのが遅くなります。

 心の問題は、別ブログの活動としてやっていきます。
 画面右側のリンク集、
 本:自分でできるスキーマ療法ワークブックbook1/2 に取組中
 のほうで行っていきたいと思います。こちらを重点的に行います。

 僕も荘子・老子をやって、だいぶ楽しませていただきましたが、滞ります。
 気長に付き合っていただけるとありがたいです。
 
posted by kurage0147130 at 19:30| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年03月22日

老子 41 (続き)道の柔らかい見方もある




2016年3月22日(火)


老子の講義 諸橋轍次 大修館書店 1973
41章
p88~90


(引用:p89:諸橋轍次:
「~中位(ちゅうくらい)の人々は、道を聞けば、半ば理解し、半ば理解しておらないから、従って信ずるが如く信ぜざるが如き態度を取る。~」)


(引用:p90:諸橋轍次:
「~十、最も大いなる製作品は、かえって未製品の如きものである。(この晩成は、未製の意であって、出来上がることのない意であり、これは、大制は割くことなしと同一の表現である。今日、大器晩成の四字を、偉大な人物は晩年になって成功する意に用いておるのは、この語の転用である。)~」 )




引用者:kurage014713:

最初のは、中士のことを言っていて、その前に上士の説明があり、後ろに下士のことが書かれている。三つを比較することによって、言いたいことを表しわかりやすくしたのだろう。

 もう一つの引用は、昨日からの続きの大器晩成の説明・注です。こちらもわかりやすいです。




老子と太極拳 清水豊 ビイング・ネット・プレス
第41章 p146~148
つまみ食い引用

(引用:p147:清水豊:
「~それは、おおいなる道には心地よさがあるからである。おおいなる道が、万人に与える感じは、春の風やほろ酔いの気分にたとえられる。こうした心地よさが、おおいなる道にはあるのである。~~

老子は、おおいなる道というものは、よくは分からないが、なにかしら楽しいものである、と言っているのである。八卦拳では、こうした楽しさのことを「滋味」という。~」)


引用者:kurage0147130:鄭子太極拳37式を勧めている。これが一番深まりがあって、道に近いらしい。(そうは書いていないが、僕の理解)

 無意識が活性化される、円運動だけでも、やらないよりはましかもしれないと、とても初心者の僕は思った。
posted by kurage0147130 at 21:47| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年03月21日

老子 41 (大器晩成 含む)

2016年3月21日(月)
老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第41章 p195~201

kurage0147130の勝手なつまみ食い引用

(引用:p195・:蜂屋邦夫:「~本当に明らかな道は暗いように見え、本当に進んでいく道は退(しりぞ)いているように見え、本当に平らな道はでこぼこしているように見える。~」:

p198:蜂屋邦夫の注・五:「~これらの句は無為自然の道の立場から世の中の常識をくつがえしたものと解釈されているが、一般論としても、物事には極限まで行くと反転する場合がある。ここは、そのことを老子が発見したものとも解しうる。~」)

と、引用しました。





引用者:kurage0147130:「物事には極限まで行くと反転する場合がある。」というのには、痺れますねえ。かっこいいです。僕もそうありたいです。



(引用:p199~200:蜂屋邦夫の注 九 大器晩成:「~「器」は完成した形であってこそ「器」であるが、「大」がつくと無限の意味が加わって、完成しないということになる。「晩成」は、おそくても完成するということであるから、肯定の意味であるが、元来、大いなる器は完成しないというのが『老子』の本義であった。~」)


引用者:kurage0147130:大器晩成が、「大いなる器は完成しない」というのが本当の意味であったらしくて、器が大のどこまでも広がって完成を迎えられないというような意味なのかと理解したけれど、正しいかな? 公用句(正しく僕は使えているのか?)の意味と本義が違っているのも楽しい。
posted by kurage0147130 at 19:37| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年03月17日

荘子 養生主篇 2 庖丁



2016年3月17日(木)

荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第三 養生主篇
p76~80
2

 庖丁による、文恵君の前での牛の解体。庖丁は人の名。


 その刀のさばき具合が凄まじく、牛の造りに沿って刀を動かし、骨にぶつかったり、筋を切り裂いたりしない。理にかなった、筋目に沿って切っていく。だから刃こぼれしない。

つるしてあった牛から、肉がボトリと落ち解体が終わる。


 この模写がすごく良くて、「荘子 超俗の境へ・蜂屋邦夫」で読んだときは、ワクワク・ドキドキ・興奮した。みなさんもここだけは立ち読みでも、読むと楽しいですよ。転載したいけれどしません。


 道を究めた人の道具を使った技術の素晴らしさが如何なく発揮され、十全に表現されている。素晴らしい文章。美しい内容。いいなあ。

 心の眼で切るともあったなあ。
posted by kurage0147130 at 20:41| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年03月16日

老子 40 続き



2016年3月16日(水)


老子の講義 諸橋轍次 大修館書店 1973
40章
p87~88

(引用:p87:諸橋轍次:
「~ この章は、有が無から生じたものであることを述べ、同時に、消極の道が積極の道の基本であることを説いている。
 我々は積極の世界に住んでいると、出かけていくことが本当の活動であると考えているが、実は反(か)えるということが、真の道の姿である。~」)

と、つまみ食い引用しました。



引用者:kurage0147130:道というのは、諸橋轍次先生の訳のように、反える、というのが真の姿なのかなあと漠然と思う。悟ったり、会得するというより、道に帰っていく、回帰のようなものかなと。間違っているだろうか?


(引用:p87~88:諸橋轍次:
「~その言葉を用いれば、反は静であって、静が道の動を導く根本だとの説明ともなって来るのである。その説を更に敷衍(ふえん)すれば、性命の本に反(か)えることが、道心の働く基礎であるとも説き得るのであって、その意味は極めて広い。~」)

と、引用しました。

引用者:kurage0147130:道は動らしいけれど、静によって導かれるとある。母なる道に帰ることなのか? これは曲解かなあ。 



老子と太極拳 清水豊 ビイング・ネット・プレス

第40章 p142~145

(引用:p144:清水豊:
「~ また、昨今の太極拳でも「柔」が重視され、「剛」が説かれることがない。しかし、太極拳の「柔」も、本当は「剛」を知らなければ分かりはしないのである。ただ、「硬」や「剛」の修練は、容易ではない。かなり細かな心身の調整が必要となる。」)

と、引用しました。



引用者:kurage0147130:柔も剛が必要とか。よくわからないけれど、対立の言葉がないと基本として成り立たないみたい。どちらかだけでなく、両方あって太極拳なのだろうか。難しい話の気がする。マスターするのは難しいとあるので、難しいのだろう。





posted by kurage0147130 at 09:18| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年03月14日

老子 第40章



2016年3月14日(月)

老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第40章 p193~194

前半を引用して、後半は、蜂屋先生の注から訳します。


(引用:p193:蜂屋邦夫:「根本に回帰していくのが道の運動であり、柔弱なのが道の作用である。~」)と、引用しました。




 続きのp194蜂屋邦夫先生・注からの訳

(引用者:kurage0147130:天下のものは、「一」「二」「三」から生じて、「一」「二」「三」は道から生ずる。

 となりましたが、何を言っているのかわかりません。

天下のものは一から生じて、一は道から生じる。

これなら少しわかりやすいけれど、一とか、道がはっきりしない。僕の中であいまいなので、モアッとしてハッキリしない。よってよくわからない。<次回へ続く>
posted by kurage0147130 at 22:34| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年03月13日

荘子 養生主篇 1



2016年3月13日(日)

荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第三 養生主篇
p75~76
1

 この 1 は、紛れ込んだものではないかと、森三樹三郎先生は仰る。でも内篇にあるので、一応触れます。全訳文を載せず、途中まで引用します。



(引用:p75:森三樹三郎:「 われわれの人生には限りがあり、しかもわれわれの知のはたらきには際限がない。限りある人生を、限りない知識欲に従わせることは、自分の身をあぶなくするだけである。身をあぶなくしながら、なおも知の欲求に従うことは、いよいよ危険きわまることだ。~」と、引用しました。)


 引用者:kurage0147130:このあと、悪に行っても、刑罰に近づくなとか、書かれている。悪を否定しないんだなとは思った。確かに森三樹三郎先生の仰るように、処世訓のようで、鬱陶しくもある。


 引用したところは、知識というものへの絶対的な信頼をあぶないと退けている。自分を運営するにあたって、どういう考えで動かすかは、各人に任せられている。法律という縛りもある。間違った知識で自分を動かすのは困る。しかし、本人には間違っているか正しいか見えない。過去になってしまっても、間違った知識で動かしたことを後悔する人は少ないと思う。

僕も誤りはたくさんしてきた。ずるいこともしてきた。悪も為した。後悔はない。今では間違っていたと思う。けれど若かったので仕方がないと開き直っている。


 現在において、最善の考え方に自分を従わせたいとは望んでいるけれど、現実との兼ね合いでズルいことも誤ったこともする。でも、やはり、良い考えを持ちたいとは望む。
posted by kurage0147130 at 12:08| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年03月08日

荘子 27 斉物論篇の最後



2016年3月8日(火)


荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第二 斉物論篇
p73~74
27
 胡蝶の夢、と言われるものです。斉物論篇最後の27番。


(引用:p73:森三樹三郎:
「<栩栩然(くくぜん)>楽しげなさま。 <遽遽然(きょきょぜん)>ありありと、はっきりしているさま。」)

、と引用しました。おもしろい表現ですね。訳を全文載せたいけれど転載になるのでやらない。



(引用:p74:森三樹三郎:
「~胡蝶はそのまま荘周である。したがって、どのような変化がおとずれても、自分が失われることはない。

生きている自分があるとともに、死んでいる自分がある。

人生だけを現実とみるのは差別の立場であり、人生もまた夢とみるのが無差別の立場である。なぜなら、万物斉同の理においては、夢と現実との区別はないからである。~」



、と引用しました。




引用者:kurage0147130:有名な奴です。ここはすごいのでしょう。鮮烈な印象があります。訳を載せないのは残念だけれど、本で読んでね。自分の夢の中の蝶と、蝶の中の自分の夢なのか区別がつかないと、ぼやかして、区別を取っ払ってしまう強引さというか強烈さがある。

 未来世紀ブラジル?だったかの映画の最後のシーンもこれが出典なのではないかと思う。

 2千年くらい前の人間が考えたものが、現代の人間にも届くという、昔の人間も今と同じくらいすごくて劣っていたなどと言えない不思議さがある。


 僕は、荘子と老子に触発されたいという願望から続けている。本を触媒にして化学変化を起こしたい、自分がどのように反応するか、知恵をもらいたいという思いです。何度も書きましたが、死について、それほど恐れるものでもないのかなという、嬉しい変化というか、感応というか、死へのイメージの変化がありました。これは、

荘子=超俗の境へ、蜂屋邦夫、講談社選書メチエ252、2002

に、影響を特に受けました。嬉しい触発です。
posted by kurage0147130 at 21:36| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年03月05日

老子 39章続き   2016/3/5(Sat)

2016年3月5日(土)
老子の講義 諸橋轍次 大修館書店 1973
39章
p83~87
 諸橋先生は3つに分けて説明しています。
 また引用をつまみ食いのように勝手にもって来ます。


(引用:p84:諸橋轍次:
「この章は、老子の得一の思想を述べている。一とは、一元気であり、陰陽の未だ分かれざるものを意味する。従って、そこには、差別もなく、彼此もないのであって、延(ひ)いては万物一体観にも説き得るし、又これを徳とすれば、老子のいう玄同の徳となるのである。」
と引用しました。)


二つ目のまとまりの説明を、
(引用:p85:諸橋轍次:「この一節は、一を得ざる場合の弊害を述べたものである。」と引用しました。)



また、文中わかっていなかったことを、諸橋先生の説明でわかった気になりました。


(引用:p86:諸橋轍次:
「~車を例に取って見ると、車の輪・車の軸と、その部分部分に差別をつけて、一つ一つ数え上げれば、そこには車という本質は出て来ない。それらの車輪・車軸などを、まとまった一つのものと考えてこそ、初めて車の本質が出て来る。~」
と引用しました。)



引用者:kurage0147130:
車の説明は、わかりやすかったです。蜂屋邦夫先生の訳の時にはわからなかったことを教えてもらいました。この車の説明は面白いです。木を見て森を見ず、みたいな内容かなと思った。細かく見ても、全体もみてやらないと何のことを言っているか迷子になってしまう。僕のいい加減な読書のことを言っているようでもあります。


 最初の39章の全体説明引用は、この章の総括でわかった気になる。用語がわからず、イマイチわからない。検索してみて、玄同とは、深妙な道と一体になること、みたいな内容らしいな。調べてもよくわかっていない。



老子と太極拳 清水豊
p139~141


(引用:p140~141:清水豊:
「~太極拳ではただひとつの套路を練って、八卦拳のような段階を設けていない。数十もの動作を含む太極拳の套路は、一見すると多くの技のつらなりのように見えることであろうが、最後には、一連の「ひとつ」の動きへと還元される。

 八卦拳の走推掌は、ひとつの動きをひとつのシンボルとしている。一方、太極拳では、一連の動きをひとつのシンボルとしてとらえるのである。一連の太極拳の套路が、「ひとつのもの」と感じられたとき、その人の心身は「一」へと還元されている。」

と引用しました。)




引用者:kurage0147130:道のことが何も見えていず、太極拳もやっていないので、さぼっている、何も言えない。でも、道とはこういうことなのだろうと漠然とイメージしている。きっと、体得するまでわからないのが続くのだろう。わかった気になるのも恐い気がする。清水先生の文を引用させてもらいました。
posted by kurage0147130 at 20:40| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年03月01日

老子 39章



2016年3月1日(火)


老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第39章 p184~192

引用します。全文ではなくて、つまみ食い引用。

(引用:p184~185:蜂屋邦夫:
「~天は一を得て清らかに、~谷は一を得て水が満ち、~王侯は一を得て天下の長となった。
~天はずっと清いままであろうとすれば裂けてしまうと思われるし、~谷はずっと満ちたままであろうとすれば涸れてしまうと思われるし、~王侯はずっと高貴なままであろうとすれば倒れてしまうと思われる。
 だから、貴い(たっとい)ものはかならず賤しい(いやしい)ものを根本とし、高いものはかならず低いものを基本としている。~
~」)



引用者:kurage0147130:もっと引用したいけれど、やりすぎだと転載になりそうなので割愛。


 谷のところの引用のところを読んでいると、谷自身が水を満たす一を得るところが、谷自身の限界、水が満ち続けることは涸れてしまうということにつながる、という指摘がある。


 そして、貴いと賤しい、高いと低いのワンセットで物事を見る。谷にいつでも水を満たそうとするのは限界をフル稼働させるようなもので爆発してしまうし(涸れる)、満ちた状態と涸れた状態ワンセットで見る必要がある。どちらかだけの、満ちる状態だけを求めるのは、そのものの限界を使い続けるようなもので破綻をきたす。満ちた状態と涸れた状態の両方を使う、両方をバランスよく見て使い行き来することがバランスの良い流れだと思う。政治の王侯のはなしも訳に出ている。今回引用しませんでしたが。



 僕の話だと、輝かそうと、栄光ばかり求めたり、結果だけを求めるのは、光だけ求め限界を進もうとすることになり、輝かない状態、陰の部分、沈んだりする、負の部分を積極的に自分の生活に盛り込むことはバランスにつながると思う。僕はバランスを欠いている。

そして、アドラーのように、現在の光らない自分を受け入れず、未来ばかり生きようとしている。

現在の光らない、日陰の、

作業所暮らしの楽しい毎日(最近は特に鬱々しているから、敢えて逆に表現し、暗い毎日を照らした表現で枠からはみ出そうとした)、

挑戦者を強いられる交通機関(僕を殴りたい奴らが寄ってくる)、

楽しい図書館(否定してくるうるさい奴らなので、逆の表現をした)を認め受け入れる、そこを脱出する未来を見るのではなく、その負の連鎖を含めた現在を愛する、毎日の負を肯定する、その負と光らそうとする未来を一緒にする、混ぜる、いや、負を基本とする(蜂屋邦夫先生の表現を借りた)見方が、いま一番必要とされていると思う。


 負の現在に軸足を置き、明るい未来も描いてみたいねと、ちょっと思う、そういうスタンス。負の現在とがっぷり四(よ)つ(相撲用語)に組めんもんかね。


 楽しくない毎日、楽しくない作業所、楽しくない交通機関、楽しくない図書館、うんざりするくらい負け戦が続いている毎日。これと、正面から取り組めないもんかね。

<おわり>

続きは
右の
リンク集 ― kurage0147130 はてなブログへ リンク 

のところに書きました。大した分量ではないです。本当にちょっとだけの続き。
posted by kurage0147130 at 11:38| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年02月28日

荘子 斉物論篇 24 飛ばした分のを戻った。




2016年2月28日(日)

荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第二 斉物論篇
p66~68
24


引用:p67:森三樹三郎:
「 ~ だから真のめざめがあっこそ、はじめてこの人生が大きな夢であることがわかるのだ。それなのに世のなかの愚かどもは、自分では目がさめているつもりで、こざかしく知ったかぶりをし、あれはとうとい、これは卑しいなどと、差別の知をはたらかせるものだ。愚かしいかぎりではないか。
~」
 引用終了。



引用者:kurage0147130:
 この引用した部分は、僕らのことが書いてある。僕は右往左往しているけれど、目先のことにこだわってあくせくしているだけだ。僕の利害は夢の中のバカ騒ぎと呼んでもいい類の話になる。

 僕は自分にものすごく執着していて、他人や自分が見えていない。ただひたすら自分に執着している。内向してきた。自分にも他人にも楽に接することができるようになるのは遠いことだと思う。

 なぜ自分に執着するのか。内向して自分しか見えてこなかったというのが今のところの結果。これからは、意識が外を向いて、自己の執着が薄れ、余裕が出てこないと他者も存在してこない、自己に他者の立場が立ち現れてこないと思う。

 この世が夢というのは、自己の執着を離れ、この世界の自己を媒介とした自己他者世界を離れ、俯瞰するくらい余裕のある状態だと思う。そこでは、いろいろな世の中の問題が立ち現われ、かつ執着せず見ることができるような、世界を夢と言い切ることができるくらいの、しがらみ・執着・思い込み・願望・期待・憧れを捨てるくらいの、断ち切りというか、離脱というか・転回が必要なのかもしれない。そんな日は来るのか? 
posted by kurage0147130 at 16:30| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年02月27日

老子 38章 続き 




2016年2月27日(土)

老子の講義 諸橋轍次 大修館書店 1973
38章

 よくわかっていないけれど、上徳の部類は自分にこだわっていず、下徳は自分に執着しこだわっている、というような印象をもった。僕は上徳になりたいけれど、現実は下徳だろう。




老子と太極拳 清水豊
p136~138
第38章

引用:p138:清水豊:~一方で、「実」をつけるエネルギーは内へ向かっている。大いなる道である「実」を得るためには、心身のエネルギーを内へと向けなければならない。「つつしみ」の気持ちがなければならないのである。



引用者:kurage0147130: 太極拳のエネルギーは内向きか? と思った。空手のように破壊するのは外だとは思うけれど、太極拳の円運動をやっていても内向するのは感じる。



posted by kurage0147130 at 21:22| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年02月23日

老子 38 / 荘子について

2016年2月23日(火)
老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第38章 p176~183

 蜂屋先生の訳を読むと、最初のところ、

「高い徳を身につけた人は徳を意識していない。そういうわけで徳がある。低い徳を身につけた人は徳を失うまいとしている。そういうわけで徳がない。」
とある。


 僕はこの低い徳の人だな。この2つの対比の形で途中まで進んでいく。

 僕は自意識過剰で、自分から離れないので、この低い徳の人のような状態だ。


 蜂屋先生の訳の最後のところの引用、

「そういうわけで、りっぱな男子は、道に即して純朴なところに身をおき、誠実さが欠けた薄っぺらなところには身をおかない。道に即して充実したところに身をおき、華やかなあだ花には身をおかない。~」
引用しました。最後の最後は省略。


 道を身につけた人はフラフラしないでしっかりし、心身が実像を描いていて虚がなく、充実した人なのだなあと思った。貧乏しそうだけれど。

 これ以上は時間を使わないで次回へ続く。



2016年2月23日(火)
老子・荘子  森三樹三郎 講談社学術文庫
p404 ここまで読み進めた。よくわかっていない。

 引用:森三樹三郎:p404:「~言葉は筌蹄(せんてい)のようなもので、真理を捕えるに必要な道具である。だが、真理そのものではない。ところが多くの場合、人びとは道具にすぎない言葉を、真理そのものと誤認する過ちを犯しやすい。だから真理を知ると同時に、言葉は忘れてしまえ、というのである。




引用者:kurage0147130:荘子の言葉のあと、説明で森先生が書かれた箇所。言葉が何かも忘れ、真実と思ったり、実際の方を忘れたり、僕のいい加減な使い方を指摘している。他の人にも思い当たるところがありそうだなと思った。(余計なお世話か)

posted by kurage0147130 at 20:56| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年02月19日

荘子 25 一個飛ばし、間違った。

2016年2月19日(金)
荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第二 斉物論篇
p68~71
25
 一個飛ばして、24をやらなかった。忘れました。
 25をやります。

 森三樹三郎先生の訳を読んでまとめます。


(  チョウゴシが「私とお前と議論して、私が勝ったら私が正しくお前が間違いなのか、お前が勝ったら、お前が正しく私が間違いなのか。片一方が間違いなのか、両方が間違いなのか。私とお前とだけでは解決できないので、他の人を呼ぼうと思うけれど、その人も混乱するだろう。

 では、お前と同じ立場の人を呼んだら、それも正しくない。私と同じ立場の人を呼んでも、それも正しくない。

 両方と違う意見の他者を呼んでも、正しく判断できない。両方と同じ意見の他者も、これも正しく判断できない。

 よって、私、お前、他者、誰にも判断できない。

 そこで、天倪(てんげい)の立場が必要になる。

 意見の対立、本当に正しい立場なら、間違った立場とは相いれないのだから議論が起こらない。正しいのなら、間違っているのとは相いれず、議論は起こらない。

 ということは議論が起こるのは、主観的に見ているからだということであり、主観だから議論などないようなものだ。このような主観の対立を天倪で調停し、和にするのが道である。

 時間を忘れ、対立を忘れ、無限に遊べば道の境地に至る。





この文章はすべて森三樹三郎先生の訳を下敷きにし、kurage0147130が、主観によってまとめたもので、正しいわけではありません。先生の訳を読んで判断してください。


 おもしろいですね。対立は無意味だと喝破している。歩み寄り、調停し、和になるようにすることが大事だと思う。無駄な争いにエネルギーを使うのはバカバカしい。対立に正当性を持ち込まないこの考え方は好きだなあ。
posted by kurage0147130 at 21:56| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年02月18日

老子 第37章



2016年2月18日(木)

老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第37章 p173~175

 道を守れば、政治でも万民は静かに安定して過ごすだろう、みたいなことを言っているのだろうと、蜂屋邦夫さんの訳を読んで要約した。あまり重要ではないように思うけれど、どうだろう。





老子の講義 諸橋轍次 大修館書店
p76~78

(引用:p77:諸橋轍次:~これは、無為の政治、或は民をして無欲ならしめる政治を施すがよい、と教えた章である。)



引用者:kurage0147130 :政治のことを言っているとは思うけれど、蜂屋先生の訳のように道のことも大事だと思う。でも、的確な理解なのだろう。わかりやすいので載せた。




老子と太極拳 清水豊
p133~135

(引用:p134:清水豊:~我々は、あまりによけいなことをしてしまっており、ために本質が見えなくなっている、というわけである。
「欲せずして、もって静たれ」
 老子は、よけいな欲望は持たないで、「静」を保て、と教えているのである。老子は、こうした状態を「樸(はく)」という。「樸」であれば、「無欲」でいられるし、「無欲」であれば、「静」を保つことができる、とするのである。
~)



引用者:kurage0147130: この引用文の後に、シンプルに生きるには削ぎ落とすことが大事だ、みたいなことが書かれていると理解している。

確かに僕が、荘子・老子を読むのは読んでみて、死についての心構えや、本当に必要なものをつかまえる手立てとして道を得る、という方法を教えてくれているらしいので、薄ぼんやりでも掴まえたいと思っている。虚飾も、成功もなくてもいいから、本質だけはぐっと掴みたい。


posted by kurage0147130 at 21:10| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年02月17日

荘子 斉物論篇 23(荘子さん、おもしろいよ。)




2016年2月17日(水)


荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第二 斉物論篇
p65~66

23
(引用:p66:森三樹三郎:~死の世界に行ったものも、行ってみれば案外に楽しいので、なぜ死ぬ前にあれほど生きることばかり願っていたのだろう、と後悔しないとはかぎるまい。)



引用者:kurage0147130:ここを読んで、一番言いたかったのは最後のここのところだなと思った。ここを言いたいがために他の最初・中盤の文を作ったのだなと。


 ここは完全にひっくり返って、死から生を見ている。死んでみれば、生に執着していたのがバカバカしいと。後悔するかもしれないなどと言ってのける。


 確かに僕は生にもみくちゃになっているけれど、生は死とワンセットだし、生の側からだけ見ないで死の側から見るという逆説があっていい。

生の先が死ではなく、死が続いていく中で生もあったという、まんま逆に当てはめたのが面白い。

死が生の終わりの行き着いた最終地点で区切れ終わってしまうのではなく、死の世界に遊ぶくらいのこの文章は硬直した死生観ではなく、忌み嫌うのではなく、死の世界に桜の花が咲くくらいの、くだけたおおらかさがあって、僕が死を見る時の硬い感じがなくて別の見方を提供されたなと面白く思う。

こういうのは、真骨頂というのだろうね、荘子さん。またもいい加減なことを書きました。
posted by kurage0147130 at 21:24| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年02月14日

老子 36章

2016年2月14日(日)
老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第36章 p169~172

 この内容、聞いたことがあるような。最後の文からすると、統治者の心構えのようなものかなと思った。

 蜂屋邦夫先生の訳を読んで、意訳しました。正確ではありません。

kurage0147130 :「縮めてやりたければ、拡張させろ。弱めようと思うならば、強めよ。潰そうと思うなら、
調子を上げてやれ。奪いたいなら、与えよ。これを明知という。柔弱は剛強に勝つ。人民を重い権勢の下に置き、政治の手の内は人民に見せるな。」 と意訳しました。

下敷きは蜂屋先生の訳です。僕のこの意訳は間違いの可能性があるので、蜂屋先生の訳を必ず参照してください。



 読んでの感想は、相手から手に入れたいものがあるなら、奪おうとするより、与えてから取れ。相手に勢いをもたせてから、潰せ、みたいなかなり現実的な、処世術のような、どす黒いやり方と方法論だ。へヴィーで、重い内容。でも、真実味がある。偉い人の考え方に近いような、僕のような庶民が使うべきでない、心持ちように思う。



老子の講義 諸橋轍次 大修館書店
p74~76

 最後の文の利器を、知識才能と訳しているのが、諸橋先生の訳。訳も違ってきて、知識才能は人に示すべきでないというような訳になっている。そして最初の方の弱めようと思えば強めてやれというのも、植物のことで訳してある。この植物のたとえは僕も、蜂屋先生の訳を読んでいて頭をよぎったけれど、どうなのだろうと思った。




老子入門 楠山春樹 講談社学術文庫

p188 では、この章は権謀術数のことを言っていると。この言葉が的を得ている。




老子と太極拳 清水豊
p132

引用「こうした微細なレベルでの知覚を得ることを、太極拳では覚勁(かくけい)という。」とあった。

この微細な知覚をえれば、相手の攻撃の前の微調を察知し、回避できるので有利だとか、そのようなことが書かれていた。太極拳自体が強いことを競うのではなく、柔弱な中の力強さを目指す面があるとか。
posted by kurage0147130 at 20:57| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年02月13日

(掃除・一度は書いてみたかった)荘子 斉物論篇 22

2016年2月13日(土)
荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第二 斉物論篇
p63~65
22
 難しくてよくわからない。


 クジャクシがチョウゴシに尋ねて言う。

クジャクシ「聖人はわが道を行くけれど、真実を語ったり、何も言わなかったり、俗人の外に遊ぶものだと。これだから霊妙な道の表れだ。」

チョウゴシ「きみは早合点だよ。霊妙な道の表れなどと言えるのかね。きみにでたらめを言ってみよう。聖人は宇宙を遊び、万物を一体にし、混沌に沈み、卑しいものを貴く扱い、価値の差別をなくす。万年の変化に身を任せ、道を守り、万物とともにある。」

 と、森三樹三郎の素晴らしい訳とは違い、僕の捏造、偽造の意訳に終始しました。本当のところは、本を読んでね。




 チョウゴシのところの会話は、でたらめだと言いつつ、老子の一番言いたいところなのだろう。謙遜というか、低めた上で、主張しているのだろう。僕も倣(なら)った。


 僕の道に対する見方は、今のところ母なるものかなと。独立しつつ、混沌にあり、自立し、かき混ざった状態の、万物そのもののような混然一体の境地なのかなと、文字をいじくってみた。僕は何も掴んでいないので、何も言う立場にはない。

一度太極拳を通してできるようにしてみたい。まだ、手の回転だけなので。





最後にも引用:森三樹三郎:p65:

*「万物尽く(ことごとく)然り(しかり)として、是を以て(もって)相蘊む(あいつつむ)」という態度、すなわち万物の価値に差別をつけず、すべてをそのままでよいとし、いっさいを肯定するという態度は、そのまま万物斉同の境地を示すものである。

と、森三樹三郎氏の文章を引用しました。
posted by kurage0147130 at 20:22| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする
リンク集