2015年12月30日

老子 30章



2015年12月30日(水)
老子 岩波文庫ワイド 蜂屋邦夫
第30章 p141~145

 勢いが盛んになれば衰えると。


老子入門、楠山春樹、講談社学術文庫、2002
によると、勢い盛んな人にならなければ衰えもやってこないと。

 でも、消極的なことを言っているのではないと思う。ピークを作らない戦略なのかな。淡々と進むみたいな。



 たしかに、僕はこの首が潰れるという僕だけに関係のある症状を持っているけれど、これも改善されつつある。もし終わったとして、この首が潰れているという側から見ると興隆があることになる。でも、それはすでに退潮の前兆かもしれない。

 となれば、首が潰れが取れてよくなるという図式を止めて、潰れていようが潰れていまいが関係ない、自分のための活動、自分のための人生、自分の側の目的意識、自分のための目標を掲げるべきなのかもしれない。他に影響を受けず、自分の取り組むスタンスだけが見えていて、見えてくるような自己本位な姿勢。(夏目漱石だっけ?)

 自分の側がどうしたいか、どうしていけばいいかだけに意識を集中するみたいなのがいいと思う。そうすれば世間的な退潮を感じることはない。衰えたとしても必然の中にある。



 蜂屋邦夫さんの本の中では、軍事の勢いはよくないみたいに書かれている。道に生きよみたいな。個人的には、軍事によりかかる強さを示すやり方は、ろくなことがないと思っている。




老子と太極拳 清水豊 ビイング・ネット・プレス
p110~112


(引用:p111:
~ 
結果が出ても、それに執着してはならないのである。中途半端なところで、「これで終わり」と思ったり、なにかを達成した、と軽々に考えたりするところにまちがいが生まれるのである。ある程度のところにいたっても、「まだまだ不十分」と考えて、止めないで先に進んでいくべきと、老子は教えているのである。~ )


引用者:kurage0147130 : この、途中経過の結果のところで足踏みをして、執着するのが僕だと思う。もしうまくいっても、やり遂げたで終わらず、先を見て進む、力強さは必要だと思う。たしかに足踏みはよくない。終わったと勘違いするところは僕には多いというか、それのみの気がする。



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2015年12月27日

荘子 内篇 第2斉物論篇 16

2015年12月27日(日)
荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎 
内篇 第2斉物論篇
16 p52~54
 最初に比較の逆転のようなことを言っている。

(引用:p53:森三樹三郎:~幼くて死んだ子どもがいちばん長生きをし、七百歳まで生きた彭祖(ほうそ)は若死にをした、などという逆説も可能である。~)

 あと、よく出てくる、一についての話がある。何を言っているかうまく説明できない。それで、解説を引用する。



荘子=超俗の境へ、蜂屋邦夫、講談社選書メチエ、2002
 荘子思想の核心―斉物の理論
  計算の名手でも計算できない
   p144~145

(引用: これは、『老子』四十二章の「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」に拠りながら、その宇宙生成論を認識論の方向に転回させたものである。ものごとの展開について、世俗の中でいかに思考を精密にし、計算しようとしたところで、計算し尽せるものではない。だから、そんなことは止めて是に因(よ)る―天地自然の道に任せればよいのだ、と荘子は言った。
 荘子の思想の究極は、一なるものに回帰することにあった。表現すれば一と言わざるを得ないが、本来、それは言葉を超え、自意識を超え、天地自然の道に完全に一体化することであった。世俗のものごとから、すでに遠く高く超え出ているのである。~)

引用者:kurage0147130 : ずいぶん長い引用になりました。僕の頭では理解できないので、蜂屋邦夫先生の文章を載せました。こちらは、わかりやすくまとめられています。難しいです。宇宙生成論を認識論の方向に転回などと、説明されています。学問的な表現だなあ。こういう枠組みで理解するのは僕は遅れているなあ。



白川静 常用字解[第二版] 平凡社 2003
p719

 老

 解説:会意。(kurage0147130の説明:老の字の上側(斜めの線を含むと、下側のカタカナのヒのような文字が、空白に順番に入る。)
○と○とを組み合わせた形。○は長髪の人を横から見た形で、長髪の垂れている形。○は人を逆さまにした形で、横たわっている死者の形。この字の場合は死に近いという意味を示している。長髪の年老いた人を老といい、「おいる、おいぼれる、としより」の意味に用いる。
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2015年12月25日

老子 第29章 

2015年12月25日(金)
老子 岩波文庫ワイド 蜂屋邦夫
第29章 p136~140

 この本を一語一語解説を見ながら読んできましたが、小さな解釈は見えてきますが、一体何を言いたいのだ、というところにつながらず、消化不良でここまで来ました。


 最近になり、逐一解説を読むのも楽しくなってきています。でもちょっと面倒で、細かいなと思う。中国語ができれば世界も違った方に開かれるだろうなとは思う。蜂屋邦夫先生の後ろを付いて行ったら楽しいかもしれない。僕にはその実力はない。


 政治をするにあたって、あれこれしない方がいいし、世の中の人々を、対に分けて両極端の対比で並べ特徴を表し、政治をする人は、淫行・華美な贅沢・過度な飲食をしないほうがいいとアドバイスのようなことを言い、心得としているみたいだ。こういう、原文を理解し、訳を作るのって難しいことだな。いろんな本と情報を使わないと正しい訳はできないだろうなとは思う。

 こう書いてみてもよくわからないし、モヤーッとしている。




老子と太極拳 清水豊
 第29章 p107~109

 ここにも出てきたけれど、人為をなさない、こういうことをして人を治めようとする作為をなくすことが書かれていたと思った。間違ってるかな? 

 それと神器、人々のことらしい。この本ではなく、蜂屋邦夫先生の訳に、天下は神器(しんき)なり、為す可(べ)からざるなり。というのがあった。

 清水豊さんの本では、今回太極拳については魅力的に感じるところは少なかったので書くことなし。です。
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2015年12月22日

荘子

2015年12月22日(火)
荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎 
内篇 第2斉物論篇
15 p50~52

 自分が言うことに対して、本当に言いたい事を言えているのかどうか、言いたいことに近づいての発言かどうか、それなら言わなくても同じではないかという。
 万物に始めがあったら、その 始めの前の段階に始めが無かったことはあるのか、それの無かったときはあるのかどうか。
 有(う)についても同じようなことを言う。この言葉遊びのようなことを言って無限後退を論じている。
 言葉とか認識の不確実性を言いたいらしい。


最後に、 *で、まとめと理解が書いてある。
 人間の言葉は、絶対無限のことを捉えられない、言葉は有限で相対的なものしか捉えられないと。相対は一つのものを2分し選り分ける、区別するものだと、不信感を表明しているらしい。(訳者の文のkurage0147130の理解。)



老子・荘子 森三樹三郎 講談社学術文庫 1994
Ⅰ老荘の思想
 2荘子の思想
  一 無限者による絶対無差別の世界の実現-万物斉同の思想


   万物斉同の理
 p74

(引用:
この万物斉同の立場に達するためには、ものを二つに分けて差別する人為をなくすこと、つまり「無為」ということが必要である。無為になれば、そこにありのままの真実があらわれる。ありのままとは、人為を加えない「自然」の姿のことである。したがって、無為自然とは、差別の人為を否定して、ありのままの自然の世界を見ることにほかならない。いいかえれば万物斉同の世界を見ることである。


    鏡のように虚である者のみが万物を包容する
p77
(引用:

このように無限者は鏡の面のように無色透明であり、虚無のように見える。しかし、その虚無はあらゆるものを迎えいれる空間である。来る者を拒むことがない。だが、またそれは一物に執着することがない。去る者は追わないのである。その点だけから見れば、無限者は冷淡であり、非情でさえある。しかし、この冷淡と非情さこそが万物を迎え入れるための不可欠の条件なのである。荘子はよく虚無恬淡(きょむてんたん)であれというが、それは非情のすすめであるかのようにみえて、実は無限者たれというすすめにほかならない。





引用者:kurage0147130 :
 僕にも食い込む余地がありそうに思える文章。こういう文章を読んでいると、僕だっていつかできるようになるさと言いたくなる。昨日は、太極拳の一番最初、円運動をやって、気を解き放ち、走らせ、縮こまった状態から解放され、気分が良かった。続けられるようになりたい。


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2015年12月21日

老子 第28章



老子 岩波文庫ワイド 蜂屋邦夫

第28章 p131~135

 柔弱、暗愚、汚辱、とマイナスの立場がプラスになるように書かれている。良い表現のように思えるけれど、何が言いたいのかわからない。逆転の形を見せたかったのか?



老子と太極拳 清水豊

第28章 p103~106 

 八卦拳の定架子、活架子、変架子の段階を追って拳が深まることを書いてある。僕のレベルではそんなところまで行かないので、実感がないし身に染みない。でも、おもしろかった。そんなものかなあと。
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2015年12月19日

荘子 第2斉物論篇14

2015年12月19日(土)
荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎 
内篇 第2斉物論篇
14 p48~50

 (引用:森三樹三郎:*すべて、一つの技能、特定の道を立てて、みずから高しとすることは、無限の道をそこなうものである。すべてを可能性の状態のままに残し、一つの小さな道を立てないのが、聖人の道である。)



引用者:kurage0147130:

 大多数の人と同様に、この考えには反対だ。一つの道を究めるのは大事だ。ただ、すごいと思ってはいけないと思う。ただのひとつの分野だし。優れているわけではないのだから、精進し、究めただけの話だ。

 可能性を残すやり方もよくない。下手でも上手くても、やってみなければいけない、と思う。

 一つの分野をやった人を軽視する考えには同意できない。この章は時代に合わない気がする。
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2015年12月18日

老子 昨日の続き第27章



2015年12月18日(金)

老子と太極拳清水 豊、 第27章
p100~102

 つまり、使えないような人や物でも、おおいなる道の悟りを体得した人であれば、棄てて顧みないということはない、というのである。これは、あらゆるものが、全体を構成するたいせつな一部であるとする老子の「一」の思想を如実に示すものにほかならない。
 どのような部分でも、それを欠いては。全体である「一」が完成されないのである。老子は言う。使えないと思われるものでも、「資」となり得るのであると。「資」とは、言うならば資材のことであり、そのままは使えないが、手を加えれば、十分に有効なものとなる、ということである。

~~「攻防」も、我々の世界には確実にある。しかし、これは老子の教えるところによれば、「攻防」も「資」ということになるのである。~大切なことは、現実にある「攻防」を「資」として、本来の道である「調和」をいかに学ぶかにあるのである。



引用者:kurage0147130::素晴らしいですね。すべてが大事で、欠けてはいけない。攻防すら、資。大事で、調和を乱すものと捉えず、攻防の中に調和を作っていくと。調和の中に攻防があると。敵でも排除ではなく、調和を作る大事な一部として尊重する。一緒に作っていく。「一」の思想らしいです。すごいなあ、格好いいなあ。わかっているのかな。

 メダカの水槽なら、しばらく掃除していない、水草に付いてきた貝の虫・ナメクジみたいなのも大事な一部だと。僕は排除して捨てることに専念してきたけれど、クローズアップしていいのだと思う。貝の虫も大事にしないと太極拳は上手にならないな。わかったぞ。(笑)




交通機関で、前に買った、

老子・荘子、森三樹三郎、講談社学術文庫、1994

を交通機関で読んでいるけれど、すごくおもしろい、背景が書かれていて、どうして老子がこういう考え方をしているか手取り足取り教えてくれる。
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2015年12月17日

老子 ちょこっと



2015年12月8日(火)

老子 岩波文庫ワイド
第27章 p125~130

 難しいなあ。よくわからないや。 


 最初の段落は、誰もいない・できないみたいな表現だ。自分がというのではなく、表見は変わっても、残さないとかないという否定的な表現。

 2段落目。見捨てられないのが、道を知る、できる、という公的な表現を主とする表現になっている。

 3段落目、(引用:p125: ~ 善人は不善人の教師であり、不善人は善人の手助けである。~)



 引用者:kurage0147130 善人と不善人を分けず、手助けを借りるようにと勧めている。借りなければ、愚か者だと言い切っている。

 僕も作業所で、年配の女性に、hanger-nuno-makiの巻き方を教えてもらった。これは想い出になったし、力となった。だいぶうまくなったので。

 老子と太極拳 も読みたいけれど眠いので、今日はカット。終了。
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2015年12月15日

荘子 第2斉物論篇 13



2015年12月15日(火)
荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎 
内篇 第2斉物論篇
13 p45~48

(引用:p47:~ 道に対するこの三つの見方に応じて、万物斉同論の内容も三段階に分かれる。

(1) すべては無であるから、いっさの差別は存在しない。

(2)物は存在するが、物と物とを区別する境界がないのであるから、万物は一体である。

(3)物の存在そのものには区別があるが、しかし物の価値はすべてひとしい。価値のうえからみて、万物はひとしい。



引用者:kurage0147130:古典的な考え方の気がする。三段階ともおもしろいけれど、どれがというわけでもないと思う。

 区別する見方は、限定と排除だと思う。あいつはバカヤローだ。となれば、バカに限定して他と区別し、頭のいい部分を排除し、バカというレッテルで気のいい部分を見なくなり、バカに閉じ込めてしまう。バカという見方以外を排除してしまう。

 バカヤローと言っても、バカ以外の部分、頭のいい部分や気のいい部分を見ないとレッテル張りに終わり、攻撃の対象として終わってしまう。理解するときには、何に限定して、何を排除しているかわかりながら区別する・名前を付ける・名前を呼ぶ、ようにしないといけないと思う。この見方も自分に送りたいと思う。
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2015年12月14日

老子 第26章 よくわからない

2015年12月14日(月)
老子 岩波文庫ワイド
第26章 p121~124


(引用:蜂屋邦夫:p121:重いものは軽いものの根本となり、静かなものは躁(さわ)がしいものの君主となる。~)
(引用:同:p122:一 ~「重」は権力の掌握、「静」は君主の地位の保持のこととされている。「根」「君」が押韻する。 ~)



感想:引用者:kurage0147130:君主のことを言っているらしいがイメージが湧かない。よくわからなかった。解説が欲しい。君主の行動規範を言っているのか? 




老子と太極拳 清水豊
第26章 p97~99

(kurage0147130の清水豊さんの文章のつまみ食い・抜粋・編集:太極拳では、「沈」と「静」。気が落ちている、というような状態。こうなると濁化は下に流れ、清気は上に流れて、心身の好ましい状態。

 太極拳では「双重」を、もっとも好ましくない状態という。両足に力を入れた安定は、素早く心身を動かせないのでだめらしい。

 「重」のなかに「軽」が含まれている。そして、細かに心身が働かなければ「静」を得ることができない。




(引用:清水豊:p99:~太極拳のようなゆっくりした動きであれば、細かに心身の働くシステムを作りやすい。つまり「静」を感得しやすいのである。たとえば、ひとつの動きをひとつの円で行ったならば、その動きはおおまかであり見えやすい。しかし、多くの細かな円を少しずつ動かして、それらを途切れることなくつないでひとつの動きを作ったならば、その個々の動きは見えにくくなる。これが、太極拳の「静」である。~)


感想:kurage0147130:知らない話ばかりで新鮮です。太極拳をやっていないけれど、話を読むのは楽しい。
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2015年12月12日

荘子 斉物論篇 12 

2015年12月12日(土)
荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎 
内篇 第2斉物論篇
12 p44~45

(引用:p44:

 心を労してむりにすべてを一つにしようと努力し、実はすべてが自然のままに一つであることを知らないもの、これを朝三(ちょうさん)という。それでは朝三とは何か。



引用者:kurage0147130 : 猿回しの親方が、サルたちにとちの実をやるけれど朝3つで暮れ4つではどうだと聞いた。そしたら猿どもは不平を言い募った。そこで、朝4つで暮れ3つならどうだと聞いたところ、満足した。



(引用:p45: ~是も非もそのままに是認して、両者をそのままに行かせることーこれを両行(りょうこう)というのである。~

 <両行>是非のいずれかを取捨選択することなく、両者をそのままに放任する。





引用者:kurage0147130 : 感想として:

 良い悪いとわけてみたりする。区別してみる見方。そうすると、良い事はもっともらしく正しく見え、悪いことはいけないような咎(とが)める気持ちで排除してみようとしたりする。心地よいものと気持ち悪いものと分けてみるようにはなると思う。

 でも対象物を良い悪いとしてみなければ、良いものの悪い部分を含ませることができるし、悪いものの良い部分を含ませることができる。心地よい感情と、悪感情を投影させてみる必要がなくなる。一つのものに両方含まれているのだから。

 物を見る時に、良いとして見ないで、負の部分を含んでいるとして裏側を含ませてみる。偏った見方をしないようにする。悪いものとして見る時、良い部分を探す。悪いものとして固定する見方を排除できる。自分の見方は偏っていると自覚して、反対側の見方をフォローして見るようにする癖をつけるのはどうだろう? 自分への提案としておもしろいと思う。
posted by kurage0147130 at 20:31| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2015年12月08日

老子 25章 よくわからない。道のイメージを描きたい。

2015年12月8日(火)
老子 岩波文庫ワイド
第25章 p115~120
 難しくてよくわからない。道について言っているようだ。わからないので、

老子と太極拳 第25章 p93~96

(引用:清水豊:p95~96:
~心身の適切な均衡関係こそが、太極拳修行者が手に入れなければならない、ただ「一」つのものなのであり、「一」に、おおいなる道の実践とは、完全なる均衡の実践なのである。物的なものと精神的なものとの均衡、生命エネルギーと精神エネルギーの均衡、これらが保たれることが、「自然」であると老子は考えたのであった。)



引用者:kurage0147130 : 道や太極拳のことは何も知らないので、すごくイメージしやすい説明になっている。道が特別なことではなく、自然なもの、調和のとれたものというイメージは描ける。
posted by kurage0147130 at 20:32| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

荘子で自分のことを振り返った。

2015年12月7日(月)
荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎 
内篇 第2斉物論篇
11 p41~44

 本に書いてあることと、僕の言っていることは違うかもしれないけれど、区別は正しいか? 必要なものと必要ないもの。これらは区別される。それは使用者が自分の都合で分けたもの。そのものに必要かどうかがあるわけではない。使用者の主観による区別に過ぎない。僕は区別による固定した見方を採っているけれど、その固定は正しいか? ただの自分の中での便宜に過ぎない。世界はこうであるという見方をひっくり返すことができる。自分の見方を固定してそうであると判断しているにすぎないのだから。



 例えば僕の生活。僕はこの作業所と、家での活動を固定して見ているけれど、流動的にとらえることもできるはずだ。たまたま、この作業所生活を金のため、精神の発達のため行くことにしているに過ぎない。別の行動もあり得る。習慣化しているので居心地がいいけれど、別の選択肢もある。



 家での生活も荘子老子を読んで、体操して寝るだけれど、別の選択肢もある。今固定しているに過ぎない。僕は、自分で固定してそれを善しとしている。一つの選択の結果であるだけ。毎日同じだと泥の中に沈むけれど、ただの選択の結果に沈んでいるに過ぎない。自分の行動、考え方も、採用されている一つの選択の結果であるだけだ。



 これはなんでもできるという意味ではなく、ただの一個人として一つを取ることは他にすることはできない必然だ。一個人であるので、ひとつのことしか為せない。限定されている。限定されているけれど、それは一個人で一つしかできないという限りと縛りがあるからというだけのこと。他のことに移っても、その縛りは同じように続く。縛り自体を流動的にできたらいいのになあ。もっと柔軟に捉え、柔軟に判断し行動し態度を採れたらなあと夢想する。僕は固定して、頭が硬く、がんじがらめになってしまう。自分自体が柔軟にできたら。すべては硬直と融通のきかなさと、一つの見方に固定していることからくるマンネリと諦め、一方通行のやり方に過ぎない。もっとあるのかもしれないけれど、思い浮かばないので、これまで。



 と思ったけれど、テキストの論理でいくと。内包すればいいらしい。美女と野獣を一つのものとして捉える。区別しない。道とは区別ではなく、内包のようだ。美女と野獣を区別するのではなく、両方を採る。両方を内包する。要る要らないではなく、要るとも要らないとも両方内包させる。彼女いるいないではなく、いてもいなくても固定した見方に沈まないこと。いれば縛りがあるし、いないという縛りがある。別の個人との関係が発生しているだけだろう。



 作業所に通う。これも通わないという選択もある。別のことを始めてもいい。でも、別のこともただの別のことで、その道も縛りがある。だから、やっていること選択していることを柔軟に捉え、いろいろ盛り込み、流動的にする工夫と努力が必要だと思う。僕はこの辺が足りない。硬直化と沈み込みに任せ、埋没している。
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2015年12月05日

老子 24章



2015年12月5日(土)

老子 岩波文庫ワイド
p111~114 第24章

 本当は、22章の前の段落らしくて、そのほうがつなぎが滑(なめ)らかになるらしい。
 大きく見せたり、知ったかぶりはイカンと言っている。道をなすものはそのような振る舞いはしないとか。あたりまえの文章で得るところは無いように感じられる。
 



老子と太極拳 24章 p90~92

(引用:清水豊:p91:~
武術に限らず、一般的な学習とは、知らないことを新たに覚えることなのであるが、太極拳では、すでに持っている好ましくないものを捨てるために、わざわざ新たに動きを習得するのである。多くを捨てるために、少しのものを入れるわけである。~)


(引用:同:p92:~
これは、踵(かかと)に重心のない人は、正しく立つことができない、ということである。~太極拳で、まっすぐに立つとは、大地に「根」が生えたように立つことである。~
太極拳の求めるところは、ただ「立つ」ということだけである。「立つ」という行為は、また人と動物とを分ける重要な行為であり、これにより人としての能力が生まれたのである。つまり文明は、人が「立つ」ことによって生まれたのである。この人としての根本を正しく得ようとするのが、太極拳なのである。)



(引用者:kurage0147130:引用と呼ぶには長すぎますが、書きました。老子と太極拳には、大事なことが書いてありました。踵でたつこと。型を覚えるのではなく、手あかのついたものを落とすために、動きを導入する。型を増やす行為ではなく、要らないものを捨てるために、動きを導入するという、逆向きの考え方が基本になっている。おもしろい考え方で参考になった。この本は目新し事ばかり書いてある。
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2015年12月03日

荘子 指物論 斉物論篇 10

2015年12月3日(木)
荘子Ⅰ 中公クラシックス
内篇 第2斉物論篇
10 p40~41
 ここは難しいので、説明のある、


荘子=超俗の境へ、蜂屋邦夫、講談社選書メチエ、2002
p123~128

 指を説明するのに、親指を上位概念の手のひらの指の下位概念と理解するのはわかる話だ。

 親指を指とする(上位概念の指と、親指を同一視すること)と、他の指は指ではなくなる。

 だから上位概念の指の下の概念の親指、人差し指、中指・・・と見ないと正しく認識できなくなってしまう。これを公孫竜の指物論(しぶつろん)と呼ぶらしい。他の指は指ではなくなる見方が、公孫竜の指物論と言い、詭弁らしい。

 ここまで、この蜂屋邦夫さんの説明を読んで、僕の理解でした。誤りもあり、足らないところもあるでしょうが、勘弁。
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2015年12月02日

老子 第23章



2015年12月2日(水)

老子 岩波文庫ワイド
p106~110 第23章

 為政者のことなら、一般人を差別してきたのかなと、注を読んでいて思った。でも、何を言いたいのかわからない。



 老子入門 楠山春樹
 では、p154
引用:( 飄風(ひょうふう)は朝(あした)を終えず、驟雨(しゅうう)は日を終えず。
)されていた。



岩波文庫ワイドでは、
飄風は、暴政の命令のたとえ、と解釈できて、
驟雨は、暴政による重税や労役などをたとえていると解釈できるらしい。
 


老子と太極
 p86~89 第23章


(p88引用:清水豊:~太極拳も日々、拳を練ることで、その動きは霊的なレベルにまで深められる。こうした深いレベルにいたると、套路に込められたエネルギーの形を、自ずから体得できるようになる。太極拳の習得に特別な方法はない。ただ、套路を繰り返せばよいだけである。~)


(引用者:kurage0147130:ただ、型をやればよいだけらしい。型と呼ばず套路というけれど、違いは分からない。練るともいう。動作ともいわない。秘訣や秘術はなく、ただ套路を練るだけらしい。シンプルでいいし、僕にも開かれているのだなと安心した。)
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2015年12月01日

2015/12/01 荘子



2015年12月1日(火)
荘子Ⅰ 中公クラシックス
内篇 第2斉物論篇
9 p37~39

 これとかあれの区別は互いに依存して存在していると。これがあるからあれがあり、あれがあるからこれがある、区別しているようでいて、実は互いを必要とするものだと。


(引用p38・39:森三樹三郎:~扉の回転軸は、環(わ)の中心にはめられることにより、はじめて無限の方向に応ずることができる。この道枢の立場に立てば、是も無限の回転をつづけ、非もまた無限の回転をつづけることになり、是非の対立はその意味を失ってしまう。~)


引用者:kurage0147130:この部分はすごいです。あれもこれも依存して両方必要だと。区別は意味をなさないと。道枢・中心は、無限の方向に応じられると。是非も無限の回転を周りで回っていて終わりがない。この中心の環が無限の方向に応じられるというのはすごいなあ。柔軟で芯があり、転換が速く、余裕がありそう。


 障がい者は差別されるけれど、障がい者がいるから健常者が存在し、その区別自体は意味を持たない。区別することで貶めようというのは、姑息だと。

両方は必要としあっていて、人間という上のくくりでいくと、その区別はただの下位になる。(荘子=超俗の境へ、蜂屋邦夫、講談社選書メチエ、2002 
を読書していて、アイデアをもらって下位とか上位の区別を書きました。)
 人間というのは、そのくくりはあらゆる下位を包んでいる上位概念だ。


追伸:本を読もうとして、頭に入らず、やるきもなかった。だから声に出して読み始め、何とか終えた。


posted by kurage0147130 at 22:11| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする
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