2016年01月29日

荘子 斉物論篇 20



2016年1月29日(金)


荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第二 斉物論篇
p58~59
19
 本に、ここは紛れ込んだと書かれていた。ので、省略。感じることは何もなかった。帝と臣下のやり取り。帝を持ち上げていた。帝の神格化のために書かれたみたいに書かれていたと思った、本にあったような。



p59~62
20
 自分の知っていると思っていることが、案外知らなかったり、知らないと思っていることが知っていたり、というようなことが書かれている。僕は何も知らないというのが、自分の立ち位置の気がする。本当に僕は何も知らないよ。僕が得意なのは、何が大事かわかることだと思う。

人間・どじょう・猿とを比較して、人間の特権・優越を引きずり降ろしている。人間・鹿・むかで・とびカラスを比較して、ここでも人間優位を否定している。
 最後に絶世の美人も、動物たちには通用しない。人間の中だけで通用する価値観だと主張して終わっている。

 僕が感じるのは、人間のちっぽけさを言いたかったのかなと。人間の知の深さも疑問視している。僕は頭が悪いので、知るということには、あやふやな気がする。何も学んでこなかった。




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2016年01月28日

老子 第33章 続 



2016年1月28日(木)

老子の講義

 諸橋轍次 大修館書店

p70~72
「~ ~財宝を蓄えるも一つの富みではあるが、満足を知る人こそ真の富者である。それと同様に、勉強努力して実行する者こそ、真に志ある人であり、~ ~」とある。引用した。

「○足ることを知る者は富めりは、白楽天の「心足らば身、貧に非ず」の意と共通である。 ○強いて行ふとは、勉強努力して実行すること。」とある。引用した。



引用者:kurage0147130: 僕は満足を知らない。次々本を買うのもそのせいでもある。僕にとっては大事な言葉だ。
 勉強力は低いけれど、勉強できるようになりたいという願望はある。



老子と太極拳

 清水豊

第33章 p119~121

「~もともと「強」とは、「弓弦の強靭であることをいう」(白川静『字統』)とあるように、一本筋を通して変わらないのが、「強」であったのである。~
~また、太極拳には「綿の中に針を蔵する」という教えがある。この「針」が、老子の言う「強」なのである。この「針」とは、太極拳にあって変わらないもの、つまり「一」であり、大いなる道なのである~ ~」とある。引用した。



引用者:kurage0147130: 強とは、丹田の腹筋の強いのを言うのかと思ったら、大いなる道らしい。体得していないので、うすぼんやりとしかわからない。よくわからないところ。
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2016年01月27日

老子 33


2016年1月27日(水)

老子

 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第33章 p156~159

「 他人(ひと)のことが分かる者は智者であり、自分のことが分かる者は明者である。他人にうち勝つ者は力があるが、自分にうち勝つ者はほんとうに強い。満足を知るものは富み、力を尽くして行なう者は志が遂げられる。自分のいるべき場所を失わない者は長続きし、死んでも、亡びることのない道のままに生きた者は長寿である。」
とある。引用した。


引用者:kurage0147130: いい文章なので引用した。蜂屋さんのそのままです。あやかりたいと思う。
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2016年01月24日

荘子 斉物論篇 18



2016年1月24日(日)

荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第二 斉物論篇
p56~58
18

「引用:*すべて、どのような美徳であっても、これを意識して行なうときは、かえって悪徳に転化する危険をもつ。ただ人為をやめて、自然のままにゆだねるとき、それは無限の美徳が生まれ出る源となることができる。」とある。


引用者―kurage0147130:後半を森三樹三郎の文章から要約して:「道を知っていれば、汲めども尽きない泉をもつようなものだし、光に包まれたように(ほうこう)葆光という境地」らしい、と要約しました。


 荘子・老子を読んでいるけれど、僕には国語力がなくて・学がない、ので手に余っている。だから引用が多くなる。自分の言葉で述べる力がない。おもしろくはあるけれど突っ込めない。いつもうすぼんやりと理解して、中途半端で終わる。
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2016年01月23日

老子 32 続

2016年1月23日(土)
老子と太極拳 清水豊 p116~118

p117
~ 太極拳のゆっくりした動きの中には、多くの変化点が含まれている。一見して、直線の動きのように見えても、じつはそれは変化点の連続したものなのである。太極拳の修練とは、三〇センチなら、三〇センチの動きの中に、いかに多くの変化点をつくるかにある。



引用者:kurage0147130: この文章の後、うまくなった人は、段々動きが遅くなって、それだけ変化点が多く設定できるようになるらしい。この辺は、やっていないので、ふーんと唸るしかない。わからない世界だ。




老子の講義 諸橋轍次 大修館書店
第32章 p68~70

 この本の解釈は、蜂屋邦夫さんの本とちょっと違う。

 蜂屋さんは名前と欲望で解釈したけれど、諸橋さんは差別と相で解釈している。

 僕が面白いと思ったのは、蜂屋さんの欲望と名の関係の話だった。
 諸橋さんのこの本で、書き下しと解釈が示されているけれど、僕には理解が深まらず要約できない。難しい。

 なので引用する。
(引用:p69:これは、常の道、すなわち人為を用いない無為の道が、政治の要道であることを述べたものである。)


引用者:kurage0147130:国語力のない僕には難しい課題だった。引用して終わり。


posted by kurage0147130 at 19:52| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年01月22日

老子 32



2016年1月22日(金)

老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第32章 p151~155

p154
十 夫亦将知止
~~「知止」は、欲望に任せて行動するのではなく、止(とど)まりどころを心得ること。なぜなら「名」は樸(あらき)のような道を切りきざんだもので、道から見れば限界があるものであるから。その限界を知らずに「名」に振りまわされれば、もっといい「名」を欲しがるようになる。たとえば、もっと名声が欲しい、もっといい物を持ちたい、などのように。その欲望には際限がないから、候王たる者は「名」の持つ限界を知って無欲なままの状態に止まるべきだ、というのが、ここの文意である。~~



引用者:kurage0147130:ここすごく大事だと思った。僕は本を買いつづけたりしたけれど、それも、必要だという名のもとに集めた。あれもこれもと際限がなかった。次々買った。それを克服する言葉が上のもの。

 名前があるものは、次々欲しくなる。これは名前がついているので、別のものへと移っていくだけで、買うという行為は止まらない。名前を付けて次々出てくるし、関連し合っている。新しくもなる。その限界を知って、無欲な状態に止まるべきだと。

 欲望の限界、名前の限界知らずをよくわかって、無欲でいると。ここが核心なのだろうか。
身に付けばいいのだけれど。だめでも、常に意識し続けることはできる。
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2016年01月20日

荘子 斉物論篇 17

2016年1月20日(水)
荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第二 斉物論篇
p54~56
17

(意訳:森三樹三郎 の文を読んでkurage0147130が大雑把にまとめたつもり:

 道は限りがないけれど、言葉は対立差別を生む。言葉では真相を掴めない。道を掴む聖人は道をそのままいだこうとするが、俗人は分析して言葉で説明しようとする。道は言葉では説明できないものだ。みたいな内容だと思う。
森三樹三郎の訳文を使って要約した。)

 いままでさんざん読んできたことのまとめみたいで、目新しいことはなかった。道を掴めたら、全的な人間になるのだろうか。
 良いも悪いも区別せず内包するらしい。分割とは逆の方向を向いて、全てを混沌として取り込むのだろうか。
 取り込むのではなく、混沌とした存在なんだろうか。?
posted by kurage0147130 at 22:58| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年01月18日

老子 31章 お久しぶりです。


2016年1月18日(月)

老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第31章

 これを読んで、


老子の講義 諸橋轍次 大修館書店 1973

 を読んでみた。
 


 戦争になったら、君子の右に将軍が立つのが喪の儀礼と同じだという。平時には君子の左に立つのが上位だとか。そのことから見ても、戦争は殺し合いだと言いたいらしい。

 老子の立場は戦争反対みたいだ。


 諸橋轍次の訳はわかりやすいけれど、この本でなければということではない。読み下し記号がついているのはいいけれど、字が小さい。届いたので今日から使ってみた。古い出版の本の新しく刷ったやつ。僕の本は、7年くらい前のものだった。

 戦争で死ぬのは寂しい。 



老子と太極拳 清水豊 第31章

 空手、少林拳は攻撃する兵だけれど、太極拳は柔だという。攻撃のために使うのではなく、自然の流れを乱すものを制するために力が使われるらしい。無為自然が基本にあり、武力が基本のようなやり方と異なる、みたいなことを言いたいらしい。

 兵器は不幸を招くともある。その目的と使用にも、凶事の禍々(まがまが)しさがこもっていると。


 武力の話だったので面白くなかった。
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2016年01月13日

荘子 番外篇(そんなのないけれど)

2016年1月13日(水)

老子・荘子、森三樹三郎、講談社学術文庫、1994
『荘子』の訳文と解説
雑篇 25則陽篇

p259
 宇宙の主宰者の有無―非言非黙
~~
 たとえば生死についてみてみよう。生まれる以前にあって、いくら生まれたくないと思っても、これを避ける方法は見つからない。逆に、いったん死んでしまえば、いくら死にたくないと思っても、これを阻止する道は見つからない。生死は人間から遠いところにあるわけでないのに、それでさえ、それがもとづいている理を見きわめることは不可能である。~~


引用者:kurage0147130: ここの箇所を読んで、自分の死についてコントロールできないことに気付いた。死は突然にやってきて僕を連れ去ってしまう。僕には前兆はわからないし、気付いた時には流れは死に傾き、死んでいるかかなり接近したものとなっている。僕は生死の前に全く無力だということに気付いた。

 他のところでも死について触れている。その前に読んだ箇所もすごく勉強になった。気が集まって誕生し、気が散って行って霧散して死に至る、みたいな文章だった。

 僕は荘子で死について学んでいる。死は、意識されずに向かってしまってぷっつりと終るものかもしれない。不思議だ。  


 恐れてきたけれど、恐れるものではなく自然なものなのだろう。荘子でイメージしている。今までの僕のイメージとはだいぶ違ったものになってきた。生きているという、存在そのものが片足を死に突っ込んだものみたいだなと思う。

 この問題は、深くて密接で、喫緊(きっきん・重要で急ぐ)で窮迫(きゅうはく・いきづまる)な問題なので読んでいて楽しい(語弊があるけれど)。

 厳かな(おごそなかな)話題だと思う。
posted by kurage0147130 at 20:25| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年01月07日

老子の講義、諸橋轍次 をジュンク堂に見に行き、字はチッコイけれどよさそうなので、クーポン割引の利くネット窓口で買った。

老子は読んでもピンと来ないので、この本でわかりやすくなるだろうと期待している。
posted by kurage0147130 at 23:08| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2016年01月06日

荘子・正月バージョン 



2016年1月6日(水)

荘子



老子・荘子、森 三樹三郎、講談社学術文庫、1994

Ⅰ-2 荘子の思想 

p85

 生と死は循環する



 「人間が天地のあいだに生きるのは、白馬が戸のすきまを走りすぎるのにも似て、つかのまのことにすぎない。万物のすべては、天地のうちから水がわき出るように現われ、やがてまた水が吸いこまれるように天地のうちに消えてゆく。
変化とともに生まれ、変化とともに死んでゆくのである。生きとし生けるものは、これをいとおしみ、悲しまないものはない。



 だが、死というものは、あたかも弓が弓袋から抜け出るように、また刀が鞘(さや)から解き放たれるように、魂が自由の天地に向かって飛び去ることであり、そのあとを肉体が追ってゆくことにほかならない。とすれば、死とは帰郷そのものではないであろうか」(知北遊

p86
篇)





引用者:kurage0147130:
 さびしいけれど、真実を言いえている気がする。命の動きのなかでの生まれ、命の動きのなかでの死。変化のうちに飛び去り、故郷(ふるさと)へ帰っていく死にゆく命。生きる者として、死は押えておきたい。限界があるから命も輝くと言っていた人があったと思った。
 限界のうちに悠然と果敢に挑(いど)めることを望みたいものだ。
posted by kurage0147130 at 21:46| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする
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