2016年02月28日

荘子 斉物論篇 24 飛ばした分のを戻った。




2016年2月28日(日)

荘子T 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第二 斉物論篇
p66〜68
24


引用:p67:森三樹三郎:
「 〜 だから真のめざめがあっこそ、はじめてこの人生が大きな夢であることがわかるのだ。それなのに世のなかの愚かどもは、自分では目がさめているつもりで、こざかしく知ったかぶりをし、あれはとうとい、これは卑しいなどと、差別の知をはたらかせるものだ。愚かしいかぎりではないか。
〜」
 引用終了。



引用者:kurage0147130:
 この引用した部分は、僕らのことが書いてある。僕は右往左往しているけれど、目先のことにこだわってあくせくしているだけだ。僕の利害は夢の中のバカ騒ぎと呼んでもいい類の話になる。

 僕は自分にものすごく執着していて、他人や自分が見えていない。ただひたすら自分に執着している。内向してきた。自分にも他人にも楽に接することができるようになるのは遠いことだと思う。

 なぜ自分に執着するのか。内向して自分しか見えてこなかったというのが今のところの結果。これからは、意識が外を向いて、自己の執着が薄れ、余裕が出てこないと他者も存在してこない、自己に他者の立場が立ち現れてこないと思う。

 この世が夢というのは、自己の執着を離れ、この世界の自己を媒介とした自己他者世界を離れ、俯瞰するくらい余裕のある状態だと思う。そこでは、いろいろな世の中の問題が立ち現われ、かつ執着せず見ることができるような、世界を夢と言い切ることができるくらいの、しがらみ・執着・思い込み・願望・期待・憧れを捨てるくらいの、断ち切りというか、離脱というか・転回が必要なのかもしれない。そんな日は来るのか? 
posted by kurage0147130 at 16:30| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月27日

老子 38章 続き 




2016年2月27日(土)

老子の講義 諸橋轍次 大修館書店 1973
38章

 よくわかっていないけれど、上徳の部類は自分にこだわっていず、下徳は自分に執着しこだわっている、というような印象をもった。僕は上徳になりたいけれど、現実は下徳だろう。




老子と太極拳 清水豊
p136〜138
第38章

引用:p138:清水豊:〜一方で、「実」をつけるエネルギーは内へ向かっている。大いなる道である「実」を得るためには、心身のエネルギーを内へと向けなければならない。「つつしみ」の気持ちがなければならないのである。



引用者:kurage0147130: 太極拳のエネルギーは内向きか? と思った。空手のように破壊するのは外だとは思うけれど、太極拳の円運動をやっていても内向するのは感じる。



posted by kurage0147130 at 21:22| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月23日

老子 38 / 荘子について

2016年2月23日(火)
老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第38章 p176〜183

 蜂屋先生の訳を読むと、最初のところ、

「高い徳を身につけた人は徳を意識していない。そういうわけで徳がある。低い徳を身につけた人は徳を失うまいとしている。そういうわけで徳がない。」
とある。


 僕はこの低い徳の人だな。この2つの対比の形で途中まで進んでいく。

 僕は自意識過剰で、自分から離れないので、この低い徳の人のような状態だ。


 蜂屋先生の訳の最後のところの引用、

「そういうわけで、りっぱな男子は、道に即して純朴なところに身をおき、誠実さが欠けた薄っぺらなところには身をおかない。道に即して充実したところに身をおき、華やかなあだ花には身をおかない。〜」
引用しました。最後の最後は省略。


 道を身につけた人はフラフラしないでしっかりし、心身が実像を描いていて虚がなく、充実した人なのだなあと思った。貧乏しそうだけれど。

 これ以上は時間を使わないで次回へ続く。



2016年2月23日(火)
老子・荘子  森三樹三郎 講談社学術文庫
p404 ここまで読み進めた。よくわかっていない。

 引用:森三樹三郎:p404:「〜言葉は筌蹄(せんてい)のようなもので、真理を捕えるに必要な道具である。だが、真理そのものではない。ところが多くの場合、人びとは道具にすぎない言葉を、真理そのものと誤認する過ちを犯しやすい。だから真理を知ると同時に、言葉は忘れてしまえ、というのである。




引用者:kurage0147130:荘子の言葉のあと、説明で森先生が書かれた箇所。言葉が何かも忘れ、真実と思ったり、実際の方を忘れたり、僕のいい加減な使い方を指摘している。他の人にも思い当たるところがありそうだなと思った。(余計なお世話か)

posted by kurage0147130 at 20:56| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月19日

荘子 25 一個飛ばし、間違った。

2016年2月19日(金)
荘子T 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第二 斉物論篇
p68〜71
25
 一個飛ばして、24をやらなかった。忘れました。
 25をやります。

 森三樹三郎先生の訳を読んでまとめます。


(  チョウゴシが「私とお前と議論して、私が勝ったら私が正しくお前が間違いなのか、お前が勝ったら、お前が正しく私が間違いなのか。片一方が間違いなのか、両方が間違いなのか。私とお前とだけでは解決できないので、他の人を呼ぼうと思うけれど、その人も混乱するだろう。

 では、お前と同じ立場の人を呼んだら、それも正しくない。私と同じ立場の人を呼んでも、それも正しくない。

 両方と違う意見の他者を呼んでも、正しく判断できない。両方と同じ意見の他者も、これも正しく判断できない。

 よって、私、お前、他者、誰にも判断できない。

 そこで、天倪(てんげい)の立場が必要になる。

 意見の対立、本当に正しい立場なら、間違った立場とは相いれないのだから議論が起こらない。正しいのなら、間違っているのとは相いれず、議論は起こらない。

 ということは議論が起こるのは、主観的に見ているからだということであり、主観だから議論などないようなものだ。このような主観の対立を天倪で調停し、和にするのが道である。

 時間を忘れ、対立を忘れ、無限に遊べば道の境地に至る。





この文章はすべて森三樹三郎先生の訳を下敷きにし、kurage0147130が、主観によってまとめたもので、正しいわけではありません。先生の訳を読んで判断してください。


 おもしろいですね。対立は無意味だと喝破している。歩み寄り、調停し、和になるようにすることが大事だと思う。無駄な争いにエネルギーを使うのはバカバカしい。対立に正当性を持ち込まないこの考え方は好きだなあ。
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2016年02月18日

老子 第37章



2016年2月18日(木)

老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第37章 p173〜175

 道を守れば、政治でも万民は静かに安定して過ごすだろう、みたいなことを言っているのだろうと、蜂屋邦夫さんの訳を読んで要約した。あまり重要ではないように思うけれど、どうだろう。





老子の講義 諸橋轍次 大修館書店
p76〜78

(引用:p77:諸橋轍次:〜これは、無為の政治、或は民をして無欲ならしめる政治を施すがよい、と教えた章である。)



引用者:kurage0147130 :政治のことを言っているとは思うけれど、蜂屋先生の訳のように道のことも大事だと思う。でも、的確な理解なのだろう。わかりやすいので載せた。




老子と太極拳 清水豊
p133〜135

(引用:p134:清水豊:〜我々は、あまりによけいなことをしてしまっており、ために本質が見えなくなっている、というわけである。
「欲せずして、もって静たれ」
 老子は、よけいな欲望は持たないで、「静」を保て、と教えているのである。老子は、こうした状態を「樸(はく)」という。「樸」であれば、「無欲」でいられるし、「無欲」であれば、「静」を保つことができる、とするのである。
〜)



引用者:kurage0147130: この引用文の後に、シンプルに生きるには削ぎ落とすことが大事だ、みたいなことが書かれていると理解している。

確かに僕が、荘子・老子を読むのは読んでみて、死についての心構えや、本当に必要なものをつかまえる手立てとして道を得る、という方法を教えてくれているらしいので、薄ぼんやりでも掴まえたいと思っている。虚飾も、成功もなくてもいいから、本質だけはぐっと掴みたい。


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2016年02月17日

荘子 斉物論篇 23(荘子さん、おもしろいよ。)




2016年2月17日(水)


荘子T 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第二 斉物論篇
p65〜66

23
(引用:p66:森三樹三郎:〜死の世界に行ったものも、行ってみれば案外に楽しいので、なぜ死ぬ前にあれほど生きることばかり願っていたのだろう、と後悔しないとはかぎるまい。)



引用者:kurage0147130:ここを読んで、一番言いたかったのは最後のここのところだなと思った。ここを言いたいがために他の最初・中盤の文を作ったのだなと。


 ここは完全にひっくり返って、死から生を見ている。死んでみれば、生に執着していたのがバカバカしいと。後悔するかもしれないなどと言ってのける。


 確かに僕は生にもみくちゃになっているけれど、生は死とワンセットだし、生の側からだけ見ないで死の側から見るという逆説があっていい。

生の先が死ではなく、死が続いていく中で生もあったという、まんま逆に当てはめたのが面白い。

死が生の終わりの行き着いた最終地点で区切れ終わってしまうのではなく、死の世界に遊ぶくらいのこの文章は硬直した死生観ではなく、忌み嫌うのではなく、死の世界に桜の花が咲くくらいの、くだけたおおらかさがあって、僕が死を見る時の硬い感じがなくて別の見方を提供されたなと面白く思う。

こういうのは、真骨頂というのだろうね、荘子さん。またもいい加減なことを書きました。
posted by kurage0147130 at 21:24| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月14日

老子 36章

2016年2月14日(日)
老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第36章 p169〜172

 この内容、聞いたことがあるような。最後の文からすると、統治者の心構えのようなものかなと思った。

 蜂屋邦夫先生の訳を読んで、意訳しました。正確ではありません。

kurage0147130 :「縮めてやりたければ、拡張させろ。弱めようと思うならば、強めよ。潰そうと思うなら、
調子を上げてやれ。奪いたいなら、与えよ。これを明知という。柔弱は剛強に勝つ。人民を重い権勢の下に置き、政治の手の内は人民に見せるな。」 と意訳しました。

下敷きは蜂屋先生の訳です。僕のこの意訳は間違いの可能性があるので、蜂屋先生の訳を必ず参照してください。



 読んでの感想は、相手から手に入れたいものがあるなら、奪おうとするより、与えてから取れ。相手に勢いをもたせてから、潰せ、みたいなかなり現実的な、処世術のような、どす黒いやり方と方法論だ。へヴィーで、重い内容。でも、真実味がある。偉い人の考え方に近いような、僕のような庶民が使うべきでない、心持ちように思う。



老子の講義 諸橋轍次 大修館書店
p74〜76

 最後の文の利器を、知識才能と訳しているのが、諸橋先生の訳。訳も違ってきて、知識才能は人に示すべきでないというような訳になっている。そして最初の方の弱めようと思えば強めてやれというのも、植物のことで訳してある。この植物のたとえは僕も、蜂屋先生の訳を読んでいて頭をよぎったけれど、どうなのだろうと思った。




老子入門 楠山春樹 講談社学術文庫

p188 では、この章は権謀術数のことを言っていると。この言葉が的を得ている。




老子と太極拳 清水豊
p132

引用「こうした微細なレベルでの知覚を得ることを、太極拳では覚勁(かくけい)という。」とあった。

この微細な知覚をえれば、相手の攻撃の前の微調を察知し、回避できるので有利だとか、そのようなことが書かれていた。太極拳自体が強いことを競うのではなく、柔弱な中の力強さを目指す面があるとか。
posted by kurage0147130 at 20:57| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月13日

(掃除・一度は書いてみたかった)荘子 斉物論篇 22

2016年2月13日(土)
荘子T 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第二 斉物論篇
p63〜65
22
 難しくてよくわからない。


 クジャクシがチョウゴシに尋ねて言う。

クジャクシ「聖人はわが道を行くけれど、真実を語ったり、何も言わなかったり、俗人の外に遊ぶものだと。これだから霊妙な道の表れだ。」

チョウゴシ「きみは早合点だよ。霊妙な道の表れなどと言えるのかね。きみにでたらめを言ってみよう。聖人は宇宙を遊び、万物を一体にし、混沌に沈み、卑しいものを貴く扱い、価値の差別をなくす。万年の変化に身を任せ、道を守り、万物とともにある。」

 と、森三樹三郎の素晴らしい訳とは違い、僕の捏造、偽造の意訳に終始しました。本当のところは、本を読んでね。




 チョウゴシのところの会話は、でたらめだと言いつつ、老子の一番言いたいところなのだろう。謙遜というか、低めた上で、主張しているのだろう。僕も倣(なら)った。


 僕の道に対する見方は、今のところ母なるものかなと。独立しつつ、混沌にあり、自立し、かき混ざった状態の、万物そのもののような混然一体の境地なのかなと、文字をいじくってみた。僕は何も掴んでいないので、何も言う立場にはない。

一度太極拳を通してできるようにしてみたい。まだ、手の回転だけなので。





最後にも引用:森三樹三郎:p65:

*「万物尽く(ことごとく)然り(しかり)として、是を以て(もって)相蘊む(あいつつむ)」という態度、すなわち万物の価値に差別をつけず、すべてをそのままでよいとし、いっさいを肯定するという態度は、そのまま万物斉同の境地を示すものである。

と、森三樹三郎氏の文章を引用しました。
posted by kurage0147130 at 20:22| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月09日

老子 35章 道の宣伝文句みたいな気がする。


2016年2月9日(火)

老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第35章 p165〜168

 蜂屋先生の訳を読んでみて、道を守る人は人が好意を寄せ、それに応えられと。世の中も良いと。
 音楽と食べ物には旅人も足を止める。道が指す言葉は味がなく、見えず、聞こえないけれど、汲めども尽きない泉のようだ、と僕は理解しました。だいぶいい加減な理解かもしれませんが、転載するよりは自分の言葉で書きました。

 このように道を体得すると良いことがたくさんありますよ、と言っているらしい。注を読みながら理解した。今日は頭に入る良い日だった。ありがたや。いつもは文字が頭に入らない日もある。



老子の講義 諸橋轍次 大修館書店
p73〜74

「これは、道の働きの偉大なことを述べたものである。」とあるので、引用した。

 諸橋先生の訳が理解しやすいなあ。載せないけれど。僕は、老子の道が口に上(のぼ)っても味わいがないと意訳した。諸橋先生の本当の訳を読んでもわかりやすかった。

 道の言葉を見ようとしても、聞こうとしても足らず(このへん怪しい受け取り方、僕の理解だなと思うけれど。見よう・聞こうがどこからかかっているのか主語がよくわからないや。)、でも尽きることがない、と書いてあると理解した。




老子と太極拳 清水豊 ビイング・ネット・プレス
p125〜129

 道に至るための太極拳、その他の拳法でも道に至ることができる。太極拳は、道に至るためのシンボルで、太極拳は道への手段だと、理解した。

 この冒頭の言の後、拳法のことが長々と書いてあるけれど、わかるけれど、拳法に疎い僕には腑に落ちるという理解はできなかった。僕は太極拳初心者の前段階ですから。手の円運動しか知らない。


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2016年02月08日

荘子 斉物論篇 21

2016年2月8日(月)
荘子T 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第二 斉物論篇
p62〜63
21

意訳:kurage0147130:
「ゲッケツがオウゲイに尋ねて、道に至った人も利害を気にかけないのかと。オウゲイが答えて、道に至った人は霊妙な人で、草が焼けようが、黄河や漢口が凍っても、雷が落ちても、嵐の海でも驚いたりしない、動揺しない人だと。道に至った人は、雲気に乗り、日月に乗り、海の外にまで遊ぶ人だ。生死にも動揺しない。だから利害などに、心動かされないとオウゲイは言った。」

と森三樹三郎の訳を参考に意訳してみました。写したと言えば、写したことになるでしょう。原本から意訳したのではないですから。


 道に至った人の(至人)、動揺しないこと、利害に興味をもったり心が動いたりしない、まさに道を体得した人の素晴らしさを言ったのだろう。雲に乗ったり、太陽や月にまたがったり、大海原の外で遊んだりする至人のスケールの大きさ、想像力、自由な心持を歌い上げている。心が柔軟で、遊び心があり、奔放でもあるのかもしれない。

 道が何か、想像もできないので、至人のイメージを荘子から思い描いている。僕も心ぐらい自由に遊ばせることができてもいいし、そういう緊張だけでない遊び心が持てたら楽しいだろうなとは思う。


 今回のやり方は、正確な書き方にしようというより、思ったことを遊ばせるやり方に動かしてみました。このやり方の方がギチギチ感がなく、楽な部分が多く、良いと思うのですけれどどうでしょう。
posted by kurage0147130 at 20:11| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月07日

老子34章

追記:kurage0147130の意訳:蜂屋邦夫氏の訳を読んでのもの:「道は大であり、万物の母のようなものだが、無欲ゆえに小ともいえる。逆説的な言い方で本質を掴もうとしている。聖人が大と言えるのは大と言わないからで、言わないゆえに大となる資格がある」、みたいに意訳した。


2016年2月7日(日)

老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第34章 p160〜164
 難しくて、説明できない。それで、


老子の講義 諸橋轍次 大修館書店
p72〜73
引用:「これは、道を心得た人は功を以て功と考えないから、真の偉大さが出来る、と諭したのである。」とあるのを、載せました。これなら上の2冊の訳文が理解できる気がする。難しくて、僕には説明できなかった。


老子入門 楠山春樹 講談社学術文庫
も読んでみて、少しわかった気になったけれど、説明できるほど理解できない。




老子と太極拳 清水豊 ビイング・ネット・プレス

 ある套路では、蹴ってきた場合と拳で突いてきた場合の両方に対応する。拳は払う動作、蹴りは相手のバランスを崩すためにちょっとだけ触れる。まともに受けたら次の相手の動作につながる場合もあるし、受けきれない場合もあるのでそのようにするらしい。これを一つの套路の相手への対応という形で2つの変化形と見て、一つの套路が基本になっている。相手の両方への対応として。相手と組んで套路を鍛錬し、套路を鍛錬することで相手への対応力を身に付けるという、相互作用のような方法で鍛えていくらしい。本に書いてあることを意訳しました。拙いです。勘弁。
posted by kurage0147130 at 22:37| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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