2016年03月27日

荘子 養生主篇 3



2016年3月27日(日)
荘子T 中公クラシックス 森三樹三郎

内篇 第三 養生主篇
p80〜81

3

 公文軒(こうぶんけん)と右師(うし・刑罰で足を切られた人)の会話。


(引用:p80:森三樹三郎:「〜天命で、こうなったのだよ。人間がやったわけではない。天がわしを生んだときに、一本足になる運命をくれたのだ。だいたい人間の顔かたちというものは、すべて天から授かったものだ。〜」)


(引用:p81:森三樹三郎:「*〜一本足にしたのは人間である。しかし人間をそうさせる背後には、天命があり、運命がある。運命への随順ということは、荘子の根本思想の一つである。」)


引用者:kurage0147130:足を切られたのに人や天を憎まず、運命だと受け入れる。

 僕は統合失調症だけれど、調子の悪い不利な日は、周りに殴られそうな日には、周りをコノヤローと思い呪っている。


 僕のこの不利な日を呪わないで、天命によって僕の調子の悪さはあらかじめセットされている(僕の調子が悪くなるから周りに攻められるのではなく)=天命であらかじめ調子が悪く攻められるように僕はセットされた人間だと受け入れる回路をもてば明るくなるだろうか?


 統合失調症にこれをあてはめると、僕の調子が悪くなるから不安定で居心地が悪いのではない。


僕が統合失調症になり・不利になったり責められるのは天命により与えられた僕の権利だ=僕は統合失調症になる権利を与えられた=僕は統合失調症をやる、またとない権利を与えられた、そういう存在だ。
僕は、統合失調症という権利もち、楽しむための機会を生かすべきだ。天に統合失調症を感謝しよう。僕の人生に与えられた、よい機会だ。


 荘子得意のひっくり返す見方だ。
エビリファイを、一日12mg飲んでいるおかげかな。
お医者さん、どうもありがとうございます。



posted by kurage0147130 at 19:09| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月25日

お知らせ(いつも読んで頂いてありがとうございます・ ・こちらは滞ります)

お知らせ

 いつも読んで頂いてありがとうございます。

 荘子・老子をアップしてきましたが、自分の心の問題に重点的に取り組みたいと思っています。
 それで、こちらの荘子・老子のブログの方は進むのが遅くなります。(アップの回数が減る)
 今までもやらない日が多かったのですが、さらに進むのが遅くなります。

 心の問題は、別ブログの活動としてやっていきます。
 画面右側のリンク集、
 本:自分でできるスキーマ療法ワークブックbook1/2 に取組中
 のほうで行っていきたいと思います。こちらを重点的に行います。

 僕も荘子・老子をやって、だいぶ楽しませていただきましたが、滞ります。
 気長に付き合っていただけるとありがたいです。
 
posted by kurage0147130 at 19:30| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月22日

老子 41 (続き)道の柔らかい見方もある




2016年3月22日(火)


老子の講義 諸橋轍次 大修館書店 1973
41章
p88〜90


(引用:p89:諸橋轍次:
「〜中位(ちゅうくらい)の人々は、道を聞けば、半ば理解し、半ば理解しておらないから、従って信ずるが如く信ぜざるが如き態度を取る。〜」)


(引用:p90:諸橋轍次:
「〜十、最も大いなる製作品は、かえって未製品の如きものである。(この晩成は、未製の意であって、出来上がることのない意であり、これは、大制は割くことなしと同一の表現である。今日、大器晩成の四字を、偉大な人物は晩年になって成功する意に用いておるのは、この語の転用である。)〜」 )




引用者:kurage014713:

最初のは、中士のことを言っていて、その前に上士の説明があり、後ろに下士のことが書かれている。三つを比較することによって、言いたいことを表しわかりやすくしたのだろう。

 もう一つの引用は、昨日からの続きの大器晩成の説明・注です。こちらもわかりやすいです。




老子と太極拳 清水豊 ビイング・ネット・プレス
第41章 p146〜148
つまみ食い引用

(引用:p147:清水豊:
「〜それは、おおいなる道には心地よさがあるからである。おおいなる道が、万人に与える感じは、春の風やほろ酔いの気分にたとえられる。こうした心地よさが、おおいなる道にはあるのである。〜〜

老子は、おおいなる道というものは、よくは分からないが、なにかしら楽しいものである、と言っているのである。八卦拳では、こうした楽しさのことを「滋味」という。〜」)


引用者:kurage0147130:鄭子太極拳37式を勧めている。これが一番深まりがあって、道に近いらしい。(そうは書いていないが、僕の理解)

 無意識が活性化される、円運動だけでも、やらないよりはましかもしれないと、とても初心者の僕は思った。
posted by kurage0147130 at 21:47| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月21日

老子 41 (大器晩成 含む)

2016年3月21日(月)
老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第41章 p195〜201

kurage0147130の勝手なつまみ食い引用

(引用:p195・:蜂屋邦夫:「〜本当に明らかな道は暗いように見え、本当に進んでいく道は退(しりぞ)いているように見え、本当に平らな道はでこぼこしているように見える。〜」:

p198:蜂屋邦夫の注・五:「〜これらの句は無為自然の道の立場から世の中の常識をくつがえしたものと解釈されているが、一般論としても、物事には極限まで行くと反転する場合がある。ここは、そのことを老子が発見したものとも解しうる。〜」)

と、引用しました。





引用者:kurage0147130:「物事には極限まで行くと反転する場合がある。」というのには、痺れますねえ。かっこいいです。僕もそうありたいです。



(引用:p199〜200:蜂屋邦夫の注 九 大器晩成:「〜「器」は完成した形であってこそ「器」であるが、「大」がつくと無限の意味が加わって、完成しないということになる。「晩成」は、おそくても完成するということであるから、肯定の意味であるが、元来、大いなる器は完成しないというのが『老子』の本義であった。〜」)


引用者:kurage0147130:大器晩成が、「大いなる器は完成しない」というのが本当の意味であったらしくて、器が大のどこまでも広がって完成を迎えられないというような意味なのかと理解したけれど、正しいかな? 公用句(正しく僕は使えているのか?)の意味と本義が違っているのも楽しい。
posted by kurage0147130 at 19:37| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月17日

荘子 養生主篇 2 庖丁



2016年3月17日(木)

荘子T 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第三 養生主篇
p76〜80
2

 庖丁による、文恵君の前での牛の解体。庖丁は人の名。


 その刀のさばき具合が凄まじく、牛の造りに沿って刀を動かし、骨にぶつかったり、筋を切り裂いたりしない。理にかなった、筋目に沿って切っていく。だから刃こぼれしない。

つるしてあった牛から、肉がボトリと落ち解体が終わる。


 この模写がすごく良くて、「荘子 超俗の境へ・蜂屋邦夫」で読んだときは、ワクワク・ドキドキ・興奮した。みなさんもここだけは立ち読みでも、読むと楽しいですよ。転載したいけれどしません。


 道を究めた人の道具を使った技術の素晴らしさが如何なく発揮され、十全に表現されている。素晴らしい文章。美しい内容。いいなあ。

 心の眼で切るともあったなあ。
posted by kurage0147130 at 20:41| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月16日

老子 40 続き



2016年3月16日(水)


老子の講義 諸橋轍次 大修館書店 1973
40章
p87〜88

(引用:p87:諸橋轍次:
「〜 この章は、有が無から生じたものであることを述べ、同時に、消極の道が積極の道の基本であることを説いている。
 我々は積極の世界に住んでいると、出かけていくことが本当の活動であると考えているが、実は反(か)えるということが、真の道の姿である。〜」)

と、つまみ食い引用しました。



引用者:kurage0147130:道というのは、諸橋轍次先生の訳のように、反える、というのが真の姿なのかなあと漠然と思う。悟ったり、会得するというより、道に帰っていく、回帰のようなものかなと。間違っているだろうか?


(引用:p87〜88:諸橋轍次:
「〜その言葉を用いれば、反は静であって、静が道の動を導く根本だとの説明ともなって来るのである。その説を更に敷衍(ふえん)すれば、性命の本に反(か)えることが、道心の働く基礎であるとも説き得るのであって、その意味は極めて広い。〜」)

と、引用しました。

引用者:kurage0147130:道は動らしいけれど、静によって導かれるとある。母なる道に帰ることなのか? これは曲解かなあ。 



老子と太極拳 清水豊 ビイング・ネット・プレス

第40章 p142〜145

(引用:p144:清水豊:
「〜 また、昨今の太極拳でも「柔」が重視され、「剛」が説かれることがない。しかし、太極拳の「柔」も、本当は「剛」を知らなければ分かりはしないのである。ただ、「硬」や「剛」の修練は、容易ではない。かなり細かな心身の調整が必要となる。」)

と、引用しました。



引用者:kurage0147130:柔も剛が必要とか。よくわからないけれど、対立の言葉がないと基本として成り立たないみたい。どちらかだけでなく、両方あって太極拳なのだろうか。難しい話の気がする。マスターするのは難しいとあるので、難しいのだろう。





posted by kurage0147130 at 09:18| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月14日

老子 第40章



2016年3月14日(月)

老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第40章 p193〜194

前半を引用して、後半は、蜂屋先生の注から訳します。


(引用:p193:蜂屋邦夫:「根本に回帰していくのが道の運動であり、柔弱なのが道の作用である。〜」)と、引用しました。




 続きのp194蜂屋邦夫先生・注からの訳

(引用者:kurage0147130:天下のものは、「一」「二」「三」から生じて、「一」「二」「三」は道から生ずる。

 となりましたが、何を言っているのかわかりません。

天下のものは一から生じて、一は道から生じる。

これなら少しわかりやすいけれど、一とか、道がはっきりしない。僕の中であいまいなので、モアッとしてハッキリしない。よってよくわからない。<次回へ続く>
posted by kurage0147130 at 22:34| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月13日

荘子 養生主篇 1



2016年3月13日(日)

荘子T 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第三 養生主篇
p75〜76
1

 この 1 は、紛れ込んだものではないかと、森三樹三郎先生は仰る。でも内篇にあるので、一応触れます。全訳文を載せず、途中まで引用します。



(引用:p75:森三樹三郎:「 われわれの人生には限りがあり、しかもわれわれの知のはたらきには際限がない。限りある人生を、限りない知識欲に従わせることは、自分の身をあぶなくするだけである。身をあぶなくしながら、なおも知の欲求に従うことは、いよいよ危険きわまることだ。〜」と、引用しました。)


 引用者:kurage0147130:このあと、悪に行っても、刑罰に近づくなとか、書かれている。悪を否定しないんだなとは思った。確かに森三樹三郎先生の仰るように、処世訓のようで、鬱陶しくもある。


 引用したところは、知識というものへの絶対的な信頼をあぶないと退けている。自分を運営するにあたって、どういう考えで動かすかは、各人に任せられている。法律という縛りもある。間違った知識で自分を動かすのは困る。しかし、本人には間違っているか正しいか見えない。過去になってしまっても、間違った知識で動かしたことを後悔する人は少ないと思う。

僕も誤りはたくさんしてきた。ずるいこともしてきた。悪も為した。後悔はない。今では間違っていたと思う。けれど若かったので仕方がないと開き直っている。


 現在において、最善の考え方に自分を従わせたいとは望んでいるけれど、現実との兼ね合いでズルいことも誤ったこともする。でも、やはり、良い考えを持ちたいとは望む。
posted by kurage0147130 at 12:08| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月08日

荘子 27 斉物論篇の最後



2016年3月8日(火)


荘子T 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第二 斉物論篇
p73〜74
27
 胡蝶の夢、と言われるものです。斉物論篇最後の27番。


(引用:p73:森三樹三郎:
「<栩栩然(くくぜん)>楽しげなさま。 <遽遽然(きょきょぜん)>ありありと、はっきりしているさま。」)

、と引用しました。おもしろい表現ですね。訳を全文載せたいけれど転載になるのでやらない。



(引用:p74:森三樹三郎:
「〜胡蝶はそのまま荘周である。したがって、どのような変化がおとずれても、自分が失われることはない。

生きている自分があるとともに、死んでいる自分がある。

人生だけを現実とみるのは差別の立場であり、人生もまた夢とみるのが無差別の立場である。なぜなら、万物斉同の理においては、夢と現実との区別はないからである。〜」



、と引用しました。




引用者:kurage0147130:有名な奴です。ここはすごいのでしょう。鮮烈な印象があります。訳を載せないのは残念だけれど、本で読んでね。自分の夢の中の蝶と、蝶の中の自分の夢なのか区別がつかないと、ぼやかして、区別を取っ払ってしまう強引さというか強烈さがある。

 未来世紀ブラジル?だったかの映画の最後のシーンもこれが出典なのではないかと思う。

 2千年くらい前の人間が考えたものが、現代の人間にも届くという、昔の人間も今と同じくらいすごくて劣っていたなどと言えない不思議さがある。


 僕は、荘子と老子に触発されたいという願望から続けている。本を触媒にして化学変化を起こしたい、自分がどのように反応するか、知恵をもらいたいという思いです。何度も書きましたが、死について、それほど恐れるものでもないのかなという、嬉しい変化というか、感応というか、死へのイメージの変化がありました。これは、

荘子=超俗の境へ、蜂屋邦夫、講談社選書メチエ252、2002

に、影響を特に受けました。嬉しい触発です。
posted by kurage0147130 at 21:36| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月05日

老子 39章続き   2016/3/5(Sat)

2016年3月5日(土)
老子の講義 諸橋轍次 大修館書店 1973
39章
p83〜87
 諸橋先生は3つに分けて説明しています。
 また引用をつまみ食いのように勝手にもって来ます。


(引用:p84:諸橋轍次:
「この章は、老子の得一の思想を述べている。一とは、一元気であり、陰陽の未だ分かれざるものを意味する。従って、そこには、差別もなく、彼此もないのであって、延(ひ)いては万物一体観にも説き得るし、又これを徳とすれば、老子のいう玄同の徳となるのである。」
と引用しました。)


二つ目のまとまりの説明を、
(引用:p85:諸橋轍次:「この一節は、一を得ざる場合の弊害を述べたものである。」と引用しました。)



また、文中わかっていなかったことを、諸橋先生の説明でわかった気になりました。


(引用:p86:諸橋轍次:
「〜車を例に取って見ると、車の輪・車の軸と、その部分部分に差別をつけて、一つ一つ数え上げれば、そこには車という本質は出て来ない。それらの車輪・車軸などを、まとまった一つのものと考えてこそ、初めて車の本質が出て来る。〜」
と引用しました。)



引用者:kurage0147130:
車の説明は、わかりやすかったです。蜂屋邦夫先生の訳の時にはわからなかったことを教えてもらいました。この車の説明は面白いです。木を見て森を見ず、みたいな内容かなと思った。細かく見ても、全体もみてやらないと何のことを言っているか迷子になってしまう。僕のいい加減な読書のことを言っているようでもあります。


 最初の39章の全体説明引用は、この章の総括でわかった気になる。用語がわからず、イマイチわからない。検索してみて、玄同とは、深妙な道と一体になること、みたいな内容らしいな。調べてもよくわかっていない。



老子と太極拳 清水豊
p139〜141


(引用:p140〜141:清水豊:
「〜太極拳ではただひとつの套路を練って、八卦拳のような段階を設けていない。数十もの動作を含む太極拳の套路は、一見すると多くの技のつらなりのように見えることであろうが、最後には、一連の「ひとつ」の動きへと還元される。

 八卦拳の走推掌は、ひとつの動きをひとつのシンボルとしている。一方、太極拳では、一連の動きをひとつのシンボルとしてとらえるのである。一連の太極拳の套路が、「ひとつのもの」と感じられたとき、その人の心身は「一」へと還元されている。」

と引用しました。)




引用者:kurage0147130:道のことが何も見えていず、太極拳もやっていないので、さぼっている、何も言えない。でも、道とはこういうことなのだろうと漠然とイメージしている。きっと、体得するまでわからないのが続くのだろう。わかった気になるのも恐い気がする。清水先生の文を引用させてもらいました。
posted by kurage0147130 at 20:40| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月01日

老子 39章



2016年3月1日(火)


老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第39章 p184〜192

引用します。全文ではなくて、つまみ食い引用。

(引用:p184〜185:蜂屋邦夫:
「〜天は一を得て清らかに、〜谷は一を得て水が満ち、〜王侯は一を得て天下の長となった。
〜天はずっと清いままであろうとすれば裂けてしまうと思われるし、〜谷はずっと満ちたままであろうとすれば涸れてしまうと思われるし、〜王侯はずっと高貴なままであろうとすれば倒れてしまうと思われる。
 だから、貴い(たっとい)ものはかならず賤しい(いやしい)ものを根本とし、高いものはかならず低いものを基本としている。〜
〜」)



引用者:kurage0147130:もっと引用したいけれど、やりすぎだと転載になりそうなので割愛。


 谷のところの引用のところを読んでいると、谷自身が水を満たす一を得るところが、谷自身の限界、水が満ち続けることは涸れてしまうということにつながる、という指摘がある。


 そして、貴いと賤しい、高いと低いのワンセットで物事を見る。谷にいつでも水を満たそうとするのは限界をフル稼働させるようなもので爆発してしまうし(涸れる)、満ちた状態と涸れた状態ワンセットで見る必要がある。どちらかだけの、満ちる状態だけを求めるのは、そのものの限界を使い続けるようなもので破綻をきたす。満ちた状態と涸れた状態の両方を使う、両方をバランスよく見て使い行き来することがバランスの良い流れだと思う。政治の王侯のはなしも訳に出ている。今回引用しませんでしたが。



 僕の話だと、輝かそうと、栄光ばかり求めたり、結果だけを求めるのは、光だけ求め限界を進もうとすることになり、輝かない状態、陰の部分、沈んだりする、負の部分を積極的に自分の生活に盛り込むことはバランスにつながると思う。僕はバランスを欠いている。

そして、アドラーのように、現在の光らない自分を受け入れず、未来ばかり生きようとしている。

現在の光らない、日陰の、

作業所暮らしの楽しい毎日(最近は特に鬱々しているから、敢えて逆に表現し、暗い毎日を照らした表現で枠からはみ出そうとした)、

挑戦者を強いられる交通機関(僕を殴りたい奴らが寄ってくる)、

楽しい図書館(否定してくるうるさい奴らなので、逆の表現をした)を認め受け入れる、そこを脱出する未来を見るのではなく、その負の連鎖を含めた現在を愛する、毎日の負を肯定する、その負と光らそうとする未来を一緒にする、混ぜる、いや、負を基本とする(蜂屋邦夫先生の表現を借りた)見方が、いま一番必要とされていると思う。


 負の現在に軸足を置き、明るい未来も描いてみたいねと、ちょっと思う、そういうスタンス。負の現在とがっぷり四(よ)つ(相撲用語)に組めんもんかね。


 楽しくない毎日、楽しくない作業所、楽しくない交通機関、楽しくない図書館、うんざりするくらい負け戦が続いている毎日。これと、正面から取り組めないもんかね。

<おわり>

続きは
右の
リンク集 ― kurage0147130 はてなブログへ リンク 

のところに書きました。大した分量ではないです。本当にちょっとだけの続き。
posted by kurage0147130 at 11:38| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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