2016年02月09日

老子 35章 道の宣伝文句みたいな気がする。


2016年2月9日(火)

老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第35章 p165~168

 蜂屋先生の訳を読んでみて、道を守る人は人が好意を寄せ、それに応えられと。世の中も良いと。
 音楽と食べ物には旅人も足を止める。道が指す言葉は味がなく、見えず、聞こえないけれど、汲めども尽きない泉のようだ、と僕は理解しました。だいぶいい加減な理解かもしれませんが、転載するよりは自分の言葉で書きました。

 このように道を体得すると良いことがたくさんありますよ、と言っているらしい。注を読みながら理解した。今日は頭に入る良い日だった。ありがたや。いつもは文字が頭に入らない日もある。



老子の講義 諸橋轍次 大修館書店
p73~74

「これは、道の働きの偉大なことを述べたものである。」とあるので、引用した。

 諸橋先生の訳が理解しやすいなあ。載せないけれど。僕は、老子の道が口に上(のぼ)っても味わいがないと意訳した。諸橋先生の本当の訳を読んでもわかりやすかった。

 道の言葉を見ようとしても、聞こうとしても足らず(このへん怪しい受け取り方、僕の理解だなと思うけれど。見よう・聞こうがどこからかかっているのか主語がよくわからないや。)、でも尽きることがない、と書いてあると理解した。




老子と太極拳 清水豊 ビイング・ネット・プレス
p125~129

 道に至るための太極拳、その他の拳法でも道に至ることができる。太極拳は、道に至るためのシンボルで、太極拳は道への手段だと、理解した。

 この冒頭の言の後、拳法のことが長々と書いてあるけれど、わかるけれど、拳法に疎い僕には腑に落ちるという理解はできなかった。僕は太極拳初心者の前段階ですから。手の円運動しか知らない。


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2016年02月08日

荘子 斉物論篇 21

2016年2月8日(月)
荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第二 斉物論篇
p62~63
21

意訳:kurage0147130:
「ゲッケツがオウゲイに尋ねて、道に至った人も利害を気にかけないのかと。オウゲイが答えて、道に至った人は霊妙な人で、草が焼けようが、黄河や漢口が凍っても、雷が落ちても、嵐の海でも驚いたりしない、動揺しない人だと。道に至った人は、雲気に乗り、日月に乗り、海の外にまで遊ぶ人だ。生死にも動揺しない。だから利害などに、心動かされないとオウゲイは言った。」

と森三樹三郎の訳を参考に意訳してみました。写したと言えば、写したことになるでしょう。原本から意訳したのではないですから。


 道に至った人の(至人)、動揺しないこと、利害に興味をもったり心が動いたりしない、まさに道を体得した人の素晴らしさを言ったのだろう。雲に乗ったり、太陽や月にまたがったり、大海原の外で遊んだりする至人のスケールの大きさ、想像力、自由な心持を歌い上げている。心が柔軟で、遊び心があり、奔放でもあるのかもしれない。

 道が何か、想像もできないので、至人のイメージを荘子から思い描いている。僕も心ぐらい自由に遊ばせることができてもいいし、そういう緊張だけでない遊び心が持てたら楽しいだろうなとは思う。


 今回のやり方は、正確な書き方にしようというより、思ったことを遊ばせるやり方に動かしてみました。このやり方の方がギチギチ感がなく、楽な部分が多く、良いと思うのですけれどどうでしょう。
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2016年02月07日

老子34章

追記:kurage0147130の意訳:蜂屋邦夫氏の訳を読んでのもの:「道は大であり、万物の母のようなものだが、無欲ゆえに小ともいえる。逆説的な言い方で本質を掴もうとしている。聖人が大と言えるのは大と言わないからで、言わないゆえに大となる資格がある」、みたいに意訳した。


2016年2月7日(日)

老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第34章 p160~164
 難しくて、説明できない。それで、


老子の講義 諸橋轍次 大修館書店
p72~73
引用:「これは、道を心得た人は功を以て功と考えないから、真の偉大さが出来る、と諭したのである。」とあるのを、載せました。これなら上の2冊の訳文が理解できる気がする。難しくて、僕には説明できなかった。


老子入門 楠山春樹 講談社学術文庫
も読んでみて、少しわかった気になったけれど、説明できるほど理解できない。




老子と太極拳 清水豊 ビイング・ネット・プレス

 ある套路では、蹴ってきた場合と拳で突いてきた場合の両方に対応する。拳は払う動作、蹴りは相手のバランスを崩すためにちょっとだけ触れる。まともに受けたら次の相手の動作につながる場合もあるし、受けきれない場合もあるのでそのようにするらしい。これを一つの套路の相手への対応という形で2つの変化形と見て、一つの套路が基本になっている。相手の両方への対応として。相手と組んで套路を鍛錬し、套路を鍛錬することで相手への対応力を身に付けるという、相互作用のような方法で鍛えていくらしい。本に書いてあることを意訳しました。拙いです。勘弁。
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2016年01月29日

荘子 斉物論篇 20



2016年1月29日(金)


荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第二 斉物論篇
p58~59
19
 本に、ここは紛れ込んだと書かれていた。ので、省略。感じることは何もなかった。帝と臣下のやり取り。帝を持ち上げていた。帝の神格化のために書かれたみたいに書かれていたと思った、本にあったような。



p59~62
20
 自分の知っていると思っていることが、案外知らなかったり、知らないと思っていることが知っていたり、というようなことが書かれている。僕は何も知らないというのが、自分の立ち位置の気がする。本当に僕は何も知らないよ。僕が得意なのは、何が大事かわかることだと思う。

人間・どじょう・猿とを比較して、人間の特権・優越を引きずり降ろしている。人間・鹿・むかで・とびカラスを比較して、ここでも人間優位を否定している。
 最後に絶世の美人も、動物たちには通用しない。人間の中だけで通用する価値観だと主張して終わっている。

 僕が感じるのは、人間のちっぽけさを言いたかったのかなと。人間の知の深さも疑問視している。僕は頭が悪いので、知るということには、あやふやな気がする。何も学んでこなかった。




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2016年01月28日

老子 第33章 続 



2016年1月28日(木)

老子の講義

 諸橋轍次 大修館書店

p70~72
「~ ~財宝を蓄えるも一つの富みではあるが、満足を知る人こそ真の富者である。それと同様に、勉強努力して実行する者こそ、真に志ある人であり、~ ~」とある。引用した。

「○足ることを知る者は富めりは、白楽天の「心足らば身、貧に非ず」の意と共通である。 ○強いて行ふとは、勉強努力して実行すること。」とある。引用した。



引用者:kurage0147130: 僕は満足を知らない。次々本を買うのもそのせいでもある。僕にとっては大事な言葉だ。
 勉強力は低いけれど、勉強できるようになりたいという願望はある。



老子と太極拳

 清水豊

第33章 p119~121

「~もともと「強」とは、「弓弦の強靭であることをいう」(白川静『字統』)とあるように、一本筋を通して変わらないのが、「強」であったのである。~
~また、太極拳には「綿の中に針を蔵する」という教えがある。この「針」が、老子の言う「強」なのである。この「針」とは、太極拳にあって変わらないもの、つまり「一」であり、大いなる道なのである~ ~」とある。引用した。



引用者:kurage0147130: 強とは、丹田の腹筋の強いのを言うのかと思ったら、大いなる道らしい。体得していないので、うすぼんやりとしかわからない。よくわからないところ。
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2016年01月27日

老子 33


2016年1月27日(水)

老子

 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第33章 p156~159

「 他人(ひと)のことが分かる者は智者であり、自分のことが分かる者は明者である。他人にうち勝つ者は力があるが、自分にうち勝つ者はほんとうに強い。満足を知るものは富み、力を尽くして行なう者は志が遂げられる。自分のいるべき場所を失わない者は長続きし、死んでも、亡びることのない道のままに生きた者は長寿である。」
とある。引用した。


引用者:kurage0147130: いい文章なので引用した。蜂屋さんのそのままです。あやかりたいと思う。
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2016年01月24日

荘子 斉物論篇 18



2016年1月24日(日)

荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第二 斉物論篇
p56~58
18

「引用:*すべて、どのような美徳であっても、これを意識して行なうときは、かえって悪徳に転化する危険をもつ。ただ人為をやめて、自然のままにゆだねるとき、それは無限の美徳が生まれ出る源となることができる。」とある。


引用者―kurage0147130:後半を森三樹三郎の文章から要約して:「道を知っていれば、汲めども尽きない泉をもつようなものだし、光に包まれたように(ほうこう)葆光という境地」らしい、と要約しました。


 荘子・老子を読んでいるけれど、僕には国語力がなくて・学がない、ので手に余っている。だから引用が多くなる。自分の言葉で述べる力がない。おもしろくはあるけれど突っ込めない。いつもうすぼんやりと理解して、中途半端で終わる。
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2016年01月23日

老子 32 続

2016年1月23日(土)
老子と太極拳 清水豊 p116~118

p117
~ 太極拳のゆっくりした動きの中には、多くの変化点が含まれている。一見して、直線の動きのように見えても、じつはそれは変化点の連続したものなのである。太極拳の修練とは、三〇センチなら、三〇センチの動きの中に、いかに多くの変化点をつくるかにある。



引用者:kurage0147130: この文章の後、うまくなった人は、段々動きが遅くなって、それだけ変化点が多く設定できるようになるらしい。この辺は、やっていないので、ふーんと唸るしかない。わからない世界だ。




老子の講義 諸橋轍次 大修館書店
第32章 p68~70

 この本の解釈は、蜂屋邦夫さんの本とちょっと違う。

 蜂屋さんは名前と欲望で解釈したけれど、諸橋さんは差別と相で解釈している。

 僕が面白いと思ったのは、蜂屋さんの欲望と名の関係の話だった。
 諸橋さんのこの本で、書き下しと解釈が示されているけれど、僕には理解が深まらず要約できない。難しい。

 なので引用する。
(引用:p69:これは、常の道、すなわち人為を用いない無為の道が、政治の要道であることを述べたものである。)


引用者:kurage0147130:国語力のない僕には難しい課題だった。引用して終わり。


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2016年01月22日

老子 32



2016年1月22日(金)

老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第32章 p151~155

p154
十 夫亦将知止
~~「知止」は、欲望に任せて行動するのではなく、止(とど)まりどころを心得ること。なぜなら「名」は樸(あらき)のような道を切りきざんだもので、道から見れば限界があるものであるから。その限界を知らずに「名」に振りまわされれば、もっといい「名」を欲しがるようになる。たとえば、もっと名声が欲しい、もっといい物を持ちたい、などのように。その欲望には際限がないから、候王たる者は「名」の持つ限界を知って無欲なままの状態に止まるべきだ、というのが、ここの文意である。~~



引用者:kurage0147130:ここすごく大事だと思った。僕は本を買いつづけたりしたけれど、それも、必要だという名のもとに集めた。あれもこれもと際限がなかった。次々買った。それを克服する言葉が上のもの。

 名前があるものは、次々欲しくなる。これは名前がついているので、別のものへと移っていくだけで、買うという行為は止まらない。名前を付けて次々出てくるし、関連し合っている。新しくもなる。その限界を知って、無欲な状態に止まるべきだと。

 欲望の限界、名前の限界知らずをよくわかって、無欲でいると。ここが核心なのだろうか。
身に付けばいいのだけれど。だめでも、常に意識し続けることはできる。
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2016年01月20日

荘子 斉物論篇 17

2016年1月20日(水)
荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎
内篇 第二 斉物論篇
p54~56
17

(意訳:森三樹三郎 の文を読んでkurage0147130が大雑把にまとめたつもり:

 道は限りがないけれど、言葉は対立差別を生む。言葉では真相を掴めない。道を掴む聖人は道をそのままいだこうとするが、俗人は分析して言葉で説明しようとする。道は言葉では説明できないものだ。みたいな内容だと思う。
森三樹三郎の訳文を使って要約した。)

 いままでさんざん読んできたことのまとめみたいで、目新しいことはなかった。道を掴めたら、全的な人間になるのだろうか。
 良いも悪いも区別せず内包するらしい。分割とは逆の方向を向いて、全てを混沌として取り込むのだろうか。
 取り込むのではなく、混沌とした存在なんだろうか。?
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2016年01月18日

老子 31章 お久しぶりです。


2016年1月18日(月)

老子 蜂屋邦夫 岩波文庫ワイド
第31章

 これを読んで、


老子の講義 諸橋轍次 大修館書店 1973

 を読んでみた。
 


 戦争になったら、君子の右に将軍が立つのが喪の儀礼と同じだという。平時には君子の左に立つのが上位だとか。そのことから見ても、戦争は殺し合いだと言いたいらしい。

 老子の立場は戦争反対みたいだ。


 諸橋轍次の訳はわかりやすいけれど、この本でなければということではない。読み下し記号がついているのはいいけれど、字が小さい。届いたので今日から使ってみた。古い出版の本の新しく刷ったやつ。僕の本は、7年くらい前のものだった。

 戦争で死ぬのは寂しい。 



老子と太極拳 清水豊 第31章

 空手、少林拳は攻撃する兵だけれど、太極拳は柔だという。攻撃のために使うのではなく、自然の流れを乱すものを制するために力が使われるらしい。無為自然が基本にあり、武力が基本のようなやり方と異なる、みたいなことを言いたいらしい。

 兵器は不幸を招くともある。その目的と使用にも、凶事の禍々(まがまが)しさがこもっていると。


 武力の話だったので面白くなかった。
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2016年01月13日

荘子 番外篇(そんなのないけれど)

2016年1月13日(水)

老子・荘子、森三樹三郎、講談社学術文庫、1994
『荘子』の訳文と解説
雑篇 25則陽篇

p259
 宇宙の主宰者の有無―非言非黙
~~
 たとえば生死についてみてみよう。生まれる以前にあって、いくら生まれたくないと思っても、これを避ける方法は見つからない。逆に、いったん死んでしまえば、いくら死にたくないと思っても、これを阻止する道は見つからない。生死は人間から遠いところにあるわけでないのに、それでさえ、それがもとづいている理を見きわめることは不可能である。~~


引用者:kurage0147130: ここの箇所を読んで、自分の死についてコントロールできないことに気付いた。死は突然にやってきて僕を連れ去ってしまう。僕には前兆はわからないし、気付いた時には流れは死に傾き、死んでいるかかなり接近したものとなっている。僕は生死の前に全く無力だということに気付いた。

 他のところでも死について触れている。その前に読んだ箇所もすごく勉強になった。気が集まって誕生し、気が散って行って霧散して死に至る、みたいな文章だった。

 僕は荘子で死について学んでいる。死は、意識されずに向かってしまってぷっつりと終るものかもしれない。不思議だ。  


 恐れてきたけれど、恐れるものではなく自然なものなのだろう。荘子でイメージしている。今までの僕のイメージとはだいぶ違ったものになってきた。生きているという、存在そのものが片足を死に突っ込んだものみたいだなと思う。

 この問題は、深くて密接で、喫緊(きっきん・重要で急ぐ)で窮迫(きゅうはく・いきづまる)な問題なので読んでいて楽しい(語弊があるけれど)。

 厳かな(おごそなかな)話題だと思う。
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2016年01月07日

老子の講義、諸橋轍次 をジュンク堂に見に行き、字はチッコイけれどよさそうなので、クーポン割引の利くネット窓口で買った。

老子は読んでもピンと来ないので、この本でわかりやすくなるだろうと期待している。
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2016年01月06日

荘子・正月バージョン 



2016年1月6日(水)

荘子



老子・荘子、森 三樹三郎、講談社学術文庫、1994

Ⅰ-2 荘子の思想 

p85

 生と死は循環する



 「人間が天地のあいだに生きるのは、白馬が戸のすきまを走りすぎるのにも似て、つかのまのことにすぎない。万物のすべては、天地のうちから水がわき出るように現われ、やがてまた水が吸いこまれるように天地のうちに消えてゆく。
変化とともに生まれ、変化とともに死んでゆくのである。生きとし生けるものは、これをいとおしみ、悲しまないものはない。



 だが、死というものは、あたかも弓が弓袋から抜け出るように、また刀が鞘(さや)から解き放たれるように、魂が自由の天地に向かって飛び去ることであり、そのあとを肉体が追ってゆくことにほかならない。とすれば、死とは帰郷そのものではないであろうか」(知北遊

p86
篇)





引用者:kurage0147130:
 さびしいけれど、真実を言いえている気がする。命の動きのなかでの生まれ、命の動きのなかでの死。変化のうちに飛び去り、故郷(ふるさと)へ帰っていく死にゆく命。生きる者として、死は押えておきたい。限界があるから命も輝くと言っていた人があったと思った。
 限界のうちに悠然と果敢に挑(いど)めることを望みたいものだ。
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2015年12月30日

老子 30章



2015年12月30日(水)
老子 岩波文庫ワイド 蜂屋邦夫
第30章 p141~145

 勢いが盛んになれば衰えると。


老子入門、楠山春樹、講談社学術文庫、2002
によると、勢い盛んな人にならなければ衰えもやってこないと。

 でも、消極的なことを言っているのではないと思う。ピークを作らない戦略なのかな。淡々と進むみたいな。



 たしかに、僕はこの首が潰れるという僕だけに関係のある症状を持っているけれど、これも改善されつつある。もし終わったとして、この首が潰れているという側から見ると興隆があることになる。でも、それはすでに退潮の前兆かもしれない。

 となれば、首が潰れが取れてよくなるという図式を止めて、潰れていようが潰れていまいが関係ない、自分のための活動、自分のための人生、自分の側の目的意識、自分のための目標を掲げるべきなのかもしれない。他に影響を受けず、自分の取り組むスタンスだけが見えていて、見えてくるような自己本位な姿勢。(夏目漱石だっけ?)

 自分の側がどうしたいか、どうしていけばいいかだけに意識を集中するみたいなのがいいと思う。そうすれば世間的な退潮を感じることはない。衰えたとしても必然の中にある。



 蜂屋邦夫さんの本の中では、軍事の勢いはよくないみたいに書かれている。道に生きよみたいな。個人的には、軍事によりかかる強さを示すやり方は、ろくなことがないと思っている。




老子と太極拳 清水豊 ビイング・ネット・プレス
p110~112


(引用:p111:
~ 
結果が出ても、それに執着してはならないのである。中途半端なところで、「これで終わり」と思ったり、なにかを達成した、と軽々に考えたりするところにまちがいが生まれるのである。ある程度のところにいたっても、「まだまだ不十分」と考えて、止めないで先に進んでいくべきと、老子は教えているのである。~ )


引用者:kurage0147130 : この、途中経過の結果のところで足踏みをして、執着するのが僕だと思う。もしうまくいっても、やり遂げたで終わらず、先を見て進む、力強さは必要だと思う。たしかに足踏みはよくない。終わったと勘違いするところは僕には多いというか、それのみの気がする。



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2015年12月27日

荘子 内篇 第2斉物論篇 16

2015年12月27日(日)
荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎 
内篇 第2斉物論篇
16 p52~54
 最初に比較の逆転のようなことを言っている。

(引用:p53:森三樹三郎:~幼くて死んだ子どもがいちばん長生きをし、七百歳まで生きた彭祖(ほうそ)は若死にをした、などという逆説も可能である。~)

 あと、よく出てくる、一についての話がある。何を言っているかうまく説明できない。それで、解説を引用する。



荘子=超俗の境へ、蜂屋邦夫、講談社選書メチエ、2002
 荘子思想の核心―斉物の理論
  計算の名手でも計算できない
   p144~145

(引用: これは、『老子』四十二章の「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」に拠りながら、その宇宙生成論を認識論の方向に転回させたものである。ものごとの展開について、世俗の中でいかに思考を精密にし、計算しようとしたところで、計算し尽せるものではない。だから、そんなことは止めて是に因(よ)る―天地自然の道に任せればよいのだ、と荘子は言った。
 荘子の思想の究極は、一なるものに回帰することにあった。表現すれば一と言わざるを得ないが、本来、それは言葉を超え、自意識を超え、天地自然の道に完全に一体化することであった。世俗のものごとから、すでに遠く高く超え出ているのである。~)

引用者:kurage0147130 : ずいぶん長い引用になりました。僕の頭では理解できないので、蜂屋邦夫先生の文章を載せました。こちらは、わかりやすくまとめられています。難しいです。宇宙生成論を認識論の方向に転回などと、説明されています。学問的な表現だなあ。こういう枠組みで理解するのは僕は遅れているなあ。



白川静 常用字解[第二版] 平凡社 2003
p719

 老

 解説:会意。(kurage0147130の説明:老の字の上側(斜めの線を含むと、下側のカタカナのヒのような文字が、空白に順番に入る。)
○と○とを組み合わせた形。○は長髪の人を横から見た形で、長髪の垂れている形。○は人を逆さまにした形で、横たわっている死者の形。この字の場合は死に近いという意味を示している。長髪の年老いた人を老といい、「おいる、おいぼれる、としより」の意味に用いる。
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2015年12月25日

老子 第29章 

2015年12月25日(金)
老子 岩波文庫ワイド 蜂屋邦夫
第29章 p136~140

 この本を一語一語解説を見ながら読んできましたが、小さな解釈は見えてきますが、一体何を言いたいのだ、というところにつながらず、消化不良でここまで来ました。


 最近になり、逐一解説を読むのも楽しくなってきています。でもちょっと面倒で、細かいなと思う。中国語ができれば世界も違った方に開かれるだろうなとは思う。蜂屋邦夫先生の後ろを付いて行ったら楽しいかもしれない。僕にはその実力はない。


 政治をするにあたって、あれこれしない方がいいし、世の中の人々を、対に分けて両極端の対比で並べ特徴を表し、政治をする人は、淫行・華美な贅沢・過度な飲食をしないほうがいいとアドバイスのようなことを言い、心得としているみたいだ。こういう、原文を理解し、訳を作るのって難しいことだな。いろんな本と情報を使わないと正しい訳はできないだろうなとは思う。

 こう書いてみてもよくわからないし、モヤーッとしている。




老子と太極拳 清水豊
 第29章 p107~109

 ここにも出てきたけれど、人為をなさない、こういうことをして人を治めようとする作為をなくすことが書かれていたと思った。間違ってるかな? 

 それと神器、人々のことらしい。この本ではなく、蜂屋邦夫先生の訳に、天下は神器(しんき)なり、為す可(べ)からざるなり。というのがあった。

 清水豊さんの本では、今回太極拳については魅力的に感じるところは少なかったので書くことなし。です。
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2015年12月22日

荘子

2015年12月22日(火)
荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎 
内篇 第2斉物論篇
15 p50~52

 自分が言うことに対して、本当に言いたい事を言えているのかどうか、言いたいことに近づいての発言かどうか、それなら言わなくても同じではないかという。
 万物に始めがあったら、その 始めの前の段階に始めが無かったことはあるのか、それの無かったときはあるのかどうか。
 有(う)についても同じようなことを言う。この言葉遊びのようなことを言って無限後退を論じている。
 言葉とか認識の不確実性を言いたいらしい。


最後に、 *で、まとめと理解が書いてある。
 人間の言葉は、絶対無限のことを捉えられない、言葉は有限で相対的なものしか捉えられないと。相対は一つのものを2分し選り分ける、区別するものだと、不信感を表明しているらしい。(訳者の文のkurage0147130の理解。)



老子・荘子 森三樹三郎 講談社学術文庫 1994
Ⅰ老荘の思想
 2荘子の思想
  一 無限者による絶対無差別の世界の実現-万物斉同の思想


   万物斉同の理
 p74

(引用:
この万物斉同の立場に達するためには、ものを二つに分けて差別する人為をなくすこと、つまり「無為」ということが必要である。無為になれば、そこにありのままの真実があらわれる。ありのままとは、人為を加えない「自然」の姿のことである。したがって、無為自然とは、差別の人為を否定して、ありのままの自然の世界を見ることにほかならない。いいかえれば万物斉同の世界を見ることである。


    鏡のように虚である者のみが万物を包容する
p77
(引用:

このように無限者は鏡の面のように無色透明であり、虚無のように見える。しかし、その虚無はあらゆるものを迎えいれる空間である。来る者を拒むことがない。だが、またそれは一物に執着することがない。去る者は追わないのである。その点だけから見れば、無限者は冷淡であり、非情でさえある。しかし、この冷淡と非情さこそが万物を迎え入れるための不可欠の条件なのである。荘子はよく虚無恬淡(きょむてんたん)であれというが、それは非情のすすめであるかのようにみえて、実は無限者たれというすすめにほかならない。





引用者:kurage0147130 :
 僕にも食い込む余地がありそうに思える文章。こういう文章を読んでいると、僕だっていつかできるようになるさと言いたくなる。昨日は、太極拳の一番最初、円運動をやって、気を解き放ち、走らせ、縮こまった状態から解放され、気分が良かった。続けられるようになりたい。


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2015年12月21日

老子 第28章



老子 岩波文庫ワイド 蜂屋邦夫

第28章 p131~135

 柔弱、暗愚、汚辱、とマイナスの立場がプラスになるように書かれている。良い表現のように思えるけれど、何が言いたいのかわからない。逆転の形を見せたかったのか?



老子と太極拳 清水豊

第28章 p103~106 

 八卦拳の定架子、活架子、変架子の段階を追って拳が深まることを書いてある。僕のレベルではそんなところまで行かないので、実感がないし身に染みない。でも、おもしろかった。そんなものかなあと。
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2015年12月19日

荘子 第2斉物論篇14

2015年12月19日(土)
荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎 
内篇 第2斉物論篇
14 p48~50

 (引用:森三樹三郎:*すべて、一つの技能、特定の道を立てて、みずから高しとすることは、無限の道をそこなうものである。すべてを可能性の状態のままに残し、一つの小さな道を立てないのが、聖人の道である。)



引用者:kurage0147130:

 大多数の人と同様に、この考えには反対だ。一つの道を究めるのは大事だ。ただ、すごいと思ってはいけないと思う。ただのひとつの分野だし。優れているわけではないのだから、精進し、究めただけの話だ。

 可能性を残すやり方もよくない。下手でも上手くても、やってみなければいけない、と思う。

 一つの分野をやった人を軽視する考えには同意できない。この章は時代に合わない気がする。
posted by kurage0147130 at 22:46| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする
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