2015年12月18日

老子 昨日の続き第27章



2015年12月18日(金)

老子と太極拳清水 豊、 第27章
p100~102

 つまり、使えないような人や物でも、おおいなる道の悟りを体得した人であれば、棄てて顧みないということはない、というのである。これは、あらゆるものが、全体を構成するたいせつな一部であるとする老子の「一」の思想を如実に示すものにほかならない。
 どのような部分でも、それを欠いては。全体である「一」が完成されないのである。老子は言う。使えないと思われるものでも、「資」となり得るのであると。「資」とは、言うならば資材のことであり、そのままは使えないが、手を加えれば、十分に有効なものとなる、ということである。

~~「攻防」も、我々の世界には確実にある。しかし、これは老子の教えるところによれば、「攻防」も「資」ということになるのである。~大切なことは、現実にある「攻防」を「資」として、本来の道である「調和」をいかに学ぶかにあるのである。



引用者:kurage0147130::素晴らしいですね。すべてが大事で、欠けてはいけない。攻防すら、資。大事で、調和を乱すものと捉えず、攻防の中に調和を作っていくと。調和の中に攻防があると。敵でも排除ではなく、調和を作る大事な一部として尊重する。一緒に作っていく。「一」の思想らしいです。すごいなあ、格好いいなあ。わかっているのかな。

 メダカの水槽なら、しばらく掃除していない、水草に付いてきた貝の虫・ナメクジみたいなのも大事な一部だと。僕は排除して捨てることに専念してきたけれど、クローズアップしていいのだと思う。貝の虫も大事にしないと太極拳は上手にならないな。わかったぞ。(笑)




交通機関で、前に買った、

老子・荘子、森三樹三郎、講談社学術文庫、1994

を交通機関で読んでいるけれど、すごくおもしろい、背景が書かれていて、どうして老子がこういう考え方をしているか手取り足取り教えてくれる。
posted by kurage0147130 at 22:01| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2015年12月17日

老子 ちょこっと



2015年12月8日(火)

老子 岩波文庫ワイド
第27章 p125~130

 難しいなあ。よくわからないや。 


 最初の段落は、誰もいない・できないみたいな表現だ。自分がというのではなく、表見は変わっても、残さないとかないという否定的な表現。

 2段落目。見捨てられないのが、道を知る、できる、という公的な表現を主とする表現になっている。

 3段落目、(引用:p125: ~ 善人は不善人の教師であり、不善人は善人の手助けである。~)



 引用者:kurage0147130 善人と不善人を分けず、手助けを借りるようにと勧めている。借りなければ、愚か者だと言い切っている。

 僕も作業所で、年配の女性に、hanger-nuno-makiの巻き方を教えてもらった。これは想い出になったし、力となった。だいぶうまくなったので。

 老子と太極拳 も読みたいけれど眠いので、今日はカット。終了。
posted by kurage0147130 at 22:20| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2015年12月15日

荘子 第2斉物論篇 13



2015年12月15日(火)
荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎 
内篇 第2斉物論篇
13 p45~48

(引用:p47:~ 道に対するこの三つの見方に応じて、万物斉同論の内容も三段階に分かれる。

(1) すべては無であるから、いっさの差別は存在しない。

(2)物は存在するが、物と物とを区別する境界がないのであるから、万物は一体である。

(3)物の存在そのものには区別があるが、しかし物の価値はすべてひとしい。価値のうえからみて、万物はひとしい。



引用者:kurage0147130:古典的な考え方の気がする。三段階ともおもしろいけれど、どれがというわけでもないと思う。

 区別する見方は、限定と排除だと思う。あいつはバカヤローだ。となれば、バカに限定して他と区別し、頭のいい部分を排除し、バカというレッテルで気のいい部分を見なくなり、バカに閉じ込めてしまう。バカという見方以外を排除してしまう。

 バカヤローと言っても、バカ以外の部分、頭のいい部分や気のいい部分を見ないとレッテル張りに終わり、攻撃の対象として終わってしまう。理解するときには、何に限定して、何を排除しているかわかりながら区別する・名前を付ける・名前を呼ぶ、ようにしないといけないと思う。この見方も自分に送りたいと思う。
posted by kurage0147130 at 10:03| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2015年12月14日

老子 第26章 よくわからない

2015年12月14日(月)
老子 岩波文庫ワイド
第26章 p121~124


(引用:蜂屋邦夫:p121:重いものは軽いものの根本となり、静かなものは躁(さわ)がしいものの君主となる。~)
(引用:同:p122:一 ~「重」は権力の掌握、「静」は君主の地位の保持のこととされている。「根」「君」が押韻する。 ~)



感想:引用者:kurage0147130:君主のことを言っているらしいがイメージが湧かない。よくわからなかった。解説が欲しい。君主の行動規範を言っているのか? 




老子と太極拳 清水豊
第26章 p97~99

(kurage0147130の清水豊さんの文章のつまみ食い・抜粋・編集:太極拳では、「沈」と「静」。気が落ちている、というような状態。こうなると濁化は下に流れ、清気は上に流れて、心身の好ましい状態。

 太極拳では「双重」を、もっとも好ましくない状態という。両足に力を入れた安定は、素早く心身を動かせないのでだめらしい。

 「重」のなかに「軽」が含まれている。そして、細かに心身が働かなければ「静」を得ることができない。




(引用:清水豊:p99:~太極拳のようなゆっくりした動きであれば、細かに心身の働くシステムを作りやすい。つまり「静」を感得しやすいのである。たとえば、ひとつの動きをひとつの円で行ったならば、その動きはおおまかであり見えやすい。しかし、多くの細かな円を少しずつ動かして、それらを途切れることなくつないでひとつの動きを作ったならば、その個々の動きは見えにくくなる。これが、太極拳の「静」である。~)


感想:kurage0147130:知らない話ばかりで新鮮です。太極拳をやっていないけれど、話を読むのは楽しい。
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2015年12月12日

荘子 斉物論篇 12 

2015年12月12日(土)
荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎 
内篇 第2斉物論篇
12 p44~45

(引用:p44:

 心を労してむりにすべてを一つにしようと努力し、実はすべてが自然のままに一つであることを知らないもの、これを朝三(ちょうさん)という。それでは朝三とは何か。



引用者:kurage0147130 : 猿回しの親方が、サルたちにとちの実をやるけれど朝3つで暮れ4つではどうだと聞いた。そしたら猿どもは不平を言い募った。そこで、朝4つで暮れ3つならどうだと聞いたところ、満足した。



(引用:p45: ~是も非もそのままに是認して、両者をそのままに行かせることーこれを両行(りょうこう)というのである。~

 <両行>是非のいずれかを取捨選択することなく、両者をそのままに放任する。





引用者:kurage0147130 : 感想として:

 良い悪いとわけてみたりする。区別してみる見方。そうすると、良い事はもっともらしく正しく見え、悪いことはいけないような咎(とが)める気持ちで排除してみようとしたりする。心地よいものと気持ち悪いものと分けてみるようにはなると思う。

 でも対象物を良い悪いとしてみなければ、良いものの悪い部分を含ませることができるし、悪いものの良い部分を含ませることができる。心地よい感情と、悪感情を投影させてみる必要がなくなる。一つのものに両方含まれているのだから。

 物を見る時に、良いとして見ないで、負の部分を含んでいるとして裏側を含ませてみる。偏った見方をしないようにする。悪いものとして見る時、良い部分を探す。悪いものとして固定する見方を排除できる。自分の見方は偏っていると自覚して、反対側の見方をフォローして見るようにする癖をつけるのはどうだろう? 自分への提案としておもしろいと思う。
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2015年12月08日

老子 25章 よくわからない。道のイメージを描きたい。

2015年12月8日(火)
老子 岩波文庫ワイド
第25章 p115~120
 難しくてよくわからない。道について言っているようだ。わからないので、

老子と太極拳 第25章 p93~96

(引用:清水豊:p95~96:
~心身の適切な均衡関係こそが、太極拳修行者が手に入れなければならない、ただ「一」つのものなのであり、「一」に、おおいなる道の実践とは、完全なる均衡の実践なのである。物的なものと精神的なものとの均衡、生命エネルギーと精神エネルギーの均衡、これらが保たれることが、「自然」であると老子は考えたのであった。)



引用者:kurage0147130 : 道や太極拳のことは何も知らないので、すごくイメージしやすい説明になっている。道が特別なことではなく、自然なもの、調和のとれたものというイメージは描ける。
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荘子で自分のことを振り返った。

2015年12月7日(月)
荘子Ⅰ 中公クラシックス 森三樹三郎 
内篇 第2斉物論篇
11 p41~44

 本に書いてあることと、僕の言っていることは違うかもしれないけれど、区別は正しいか? 必要なものと必要ないもの。これらは区別される。それは使用者が自分の都合で分けたもの。そのものに必要かどうかがあるわけではない。使用者の主観による区別に過ぎない。僕は区別による固定した見方を採っているけれど、その固定は正しいか? ただの自分の中での便宜に過ぎない。世界はこうであるという見方をひっくり返すことができる。自分の見方を固定してそうであると判断しているにすぎないのだから。



 例えば僕の生活。僕はこの作業所と、家での活動を固定して見ているけれど、流動的にとらえることもできるはずだ。たまたま、この作業所生活を金のため、精神の発達のため行くことにしているに過ぎない。別の行動もあり得る。習慣化しているので居心地がいいけれど、別の選択肢もある。



 家での生活も荘子老子を読んで、体操して寝るだけれど、別の選択肢もある。今固定しているに過ぎない。僕は、自分で固定してそれを善しとしている。一つの選択の結果であるだけ。毎日同じだと泥の中に沈むけれど、ただの選択の結果に沈んでいるに過ぎない。自分の行動、考え方も、採用されている一つの選択の結果であるだけだ。



 これはなんでもできるという意味ではなく、ただの一個人として一つを取ることは他にすることはできない必然だ。一個人であるので、ひとつのことしか為せない。限定されている。限定されているけれど、それは一個人で一つしかできないという限りと縛りがあるからというだけのこと。他のことに移っても、その縛りは同じように続く。縛り自体を流動的にできたらいいのになあ。もっと柔軟に捉え、柔軟に判断し行動し態度を採れたらなあと夢想する。僕は固定して、頭が硬く、がんじがらめになってしまう。自分自体が柔軟にできたら。すべては硬直と融通のきかなさと、一つの見方に固定していることからくるマンネリと諦め、一方通行のやり方に過ぎない。もっとあるのかもしれないけれど、思い浮かばないので、これまで。



 と思ったけれど、テキストの論理でいくと。内包すればいいらしい。美女と野獣を一つのものとして捉える。区別しない。道とは区別ではなく、内包のようだ。美女と野獣を区別するのではなく、両方を採る。両方を内包する。要る要らないではなく、要るとも要らないとも両方内包させる。彼女いるいないではなく、いてもいなくても固定した見方に沈まないこと。いれば縛りがあるし、いないという縛りがある。別の個人との関係が発生しているだけだろう。



 作業所に通う。これも通わないという選択もある。別のことを始めてもいい。でも、別のこともただの別のことで、その道も縛りがある。だから、やっていること選択していることを柔軟に捉え、いろいろ盛り込み、流動的にする工夫と努力が必要だと思う。僕はこの辺が足りない。硬直化と沈み込みに任せ、埋没している。
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2015年12月05日

老子 24章



2015年12月5日(土)

老子 岩波文庫ワイド
p111~114 第24章

 本当は、22章の前の段落らしくて、そのほうがつなぎが滑(なめ)らかになるらしい。
 大きく見せたり、知ったかぶりはイカンと言っている。道をなすものはそのような振る舞いはしないとか。あたりまえの文章で得るところは無いように感じられる。
 



老子と太極拳 24章 p90~92

(引用:清水豊:p91:~
武術に限らず、一般的な学習とは、知らないことを新たに覚えることなのであるが、太極拳では、すでに持っている好ましくないものを捨てるために、わざわざ新たに動きを習得するのである。多くを捨てるために、少しのものを入れるわけである。~)


(引用:同:p92:~
これは、踵(かかと)に重心のない人は、正しく立つことができない、ということである。~太極拳で、まっすぐに立つとは、大地に「根」が生えたように立つことである。~
太極拳の求めるところは、ただ「立つ」ということだけである。「立つ」という行為は、また人と動物とを分ける重要な行為であり、これにより人としての能力が生まれたのである。つまり文明は、人が「立つ」ことによって生まれたのである。この人としての根本を正しく得ようとするのが、太極拳なのである。)



(引用者:kurage0147130:引用と呼ぶには長すぎますが、書きました。老子と太極拳には、大事なことが書いてありました。踵でたつこと。型を覚えるのではなく、手あかのついたものを落とすために、動きを導入する。型を増やす行為ではなく、要らないものを捨てるために、動きを導入するという、逆向きの考え方が基本になっている。おもしろい考え方で参考になった。この本は目新し事ばかり書いてある。
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2015年12月03日

荘子 指物論 斉物論篇 10

2015年12月3日(木)
荘子Ⅰ 中公クラシックス
内篇 第2斉物論篇
10 p40~41
 ここは難しいので、説明のある、


荘子=超俗の境へ、蜂屋邦夫、講談社選書メチエ、2002
p123~128

 指を説明するのに、親指を上位概念の手のひらの指の下位概念と理解するのはわかる話だ。

 親指を指とする(上位概念の指と、親指を同一視すること)と、他の指は指ではなくなる。

 だから上位概念の指の下の概念の親指、人差し指、中指・・・と見ないと正しく認識できなくなってしまう。これを公孫竜の指物論(しぶつろん)と呼ぶらしい。他の指は指ではなくなる見方が、公孫竜の指物論と言い、詭弁らしい。

 ここまで、この蜂屋邦夫さんの説明を読んで、僕の理解でした。誤りもあり、足らないところもあるでしょうが、勘弁。
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2015年12月02日

老子 第23章



2015年12月2日(水)

老子 岩波文庫ワイド
p106~110 第23章

 為政者のことなら、一般人を差別してきたのかなと、注を読んでいて思った。でも、何を言いたいのかわからない。



 老子入門 楠山春樹
 では、p154
引用:( 飄風(ひょうふう)は朝(あした)を終えず、驟雨(しゅうう)は日を終えず。
)されていた。



岩波文庫ワイドでは、
飄風は、暴政の命令のたとえ、と解釈できて、
驟雨は、暴政による重税や労役などをたとえていると解釈できるらしい。
 


老子と太極
 p86~89 第23章


(p88引用:清水豊:~太極拳も日々、拳を練ることで、その動きは霊的なレベルにまで深められる。こうした深いレベルにいたると、套路に込められたエネルギーの形を、自ずから体得できるようになる。太極拳の習得に特別な方法はない。ただ、套路を繰り返せばよいだけである。~)


(引用者:kurage0147130:ただ、型をやればよいだけらしい。型と呼ばず套路というけれど、違いは分からない。練るともいう。動作ともいわない。秘訣や秘術はなく、ただ套路を練るだけらしい。シンプルでいいし、僕にも開かれているのだなと安心した。)
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2015年12月01日

2015/12/01 荘子



2015年12月1日(火)
荘子Ⅰ 中公クラシックス
内篇 第2斉物論篇
9 p37~39

 これとかあれの区別は互いに依存して存在していると。これがあるからあれがあり、あれがあるからこれがある、区別しているようでいて、実は互いを必要とするものだと。


(引用p38・39:森三樹三郎:~扉の回転軸は、環(わ)の中心にはめられることにより、はじめて無限の方向に応ずることができる。この道枢の立場に立てば、是も無限の回転をつづけ、非もまた無限の回転をつづけることになり、是非の対立はその意味を失ってしまう。~)


引用者:kurage0147130:この部分はすごいです。あれもこれも依存して両方必要だと。区別は意味をなさないと。道枢・中心は、無限の方向に応じられると。是非も無限の回転を周りで回っていて終わりがない。この中心の環が無限の方向に応じられるというのはすごいなあ。柔軟で芯があり、転換が速く、余裕がありそう。


 障がい者は差別されるけれど、障がい者がいるから健常者が存在し、その区別自体は意味を持たない。区別することで貶めようというのは、姑息だと。

両方は必要としあっていて、人間という上のくくりでいくと、その区別はただの下位になる。(荘子=超俗の境へ、蜂屋邦夫、講談社選書メチエ、2002 
を読書していて、アイデアをもらって下位とか上位の区別を書きました。)
 人間というのは、そのくくりはあらゆる下位を包んでいる上位概念だ。


追伸:本を読もうとして、頭に入らず、やるきもなかった。だから声に出して読み始め、何とか終えた。


posted by kurage0147130 at 22:11| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2015年11月30日

老子(救われますぜ、旦那。)※わざと下卑てみた。

2015年11月30日(月)
老子 岩波文庫ワイド
p101~105 第22章

 曲がっているからいいとか、屈(かが)まっているから真っ直ぐになれたり、少なければ得られたり、といくつも例が出ている。

 僕は、調子が悪いから調子がいい日が来ることができ、首が潰れているから伸びることができ、負けているからトントンを目指せ、現在能力が低いから伸ばすことができる。こういう逆説的に言って、否定的なものを肯定へと転換する目線が得られている。非常にネガティブに明るい光を照らす、発送の逆転を行っている。暗いままでいず、逆転してみせる、面白い言いかただった。

 中盤、後半は、倫理的な表現で、こういうのが好きならば論としては至極まっとうで、当たり前のことを言っているだけだ。学ぶこともない。


 自ら才知を誇らないから、長続きする、と書かれている、引用(蜂屋邦夫:訳)しました。




老子と太極拳 清水豊
 p83 第22章 

(引用:
 老子は、この章では太極拳の「曲中球直(きょくちゅうきゅうちょく)」の極意を語っている。老子の言うのは、次の如くである。
「曲がれるは、すなわち全(まった)かる」
「枉(よこしま)なるは、すなわち直(ただ)し」
 一見して、曲がっていて使い物にならないようなものこそが、完全なのである。一見して好ましくないようなものこそが、正しいものなのである。このように老子は述べている。




引用者:kurage0147130:いやあ、こういうの読みたかったですよ。この僕の中途半端な、煮え切らない態度と状態、首の潰れた宙ぶらりんな不完全さ。これらを照らしてくれます。アウトサイドを救う言葉だと思う。力強い。いいなあ。
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2015年11月29日

2015/11/29(SUN) 荘子 老子 / 自己観

2015年11月29日(日)
荘子Ⅰ 中公クラシックス
内篇 第2斉物論篇
8 p35~37

 言ったことがはっきりしないまま発言することが、ひな鳥のさえずりと違うといえるか、と手厳しい内容が語られる。是非の対立は、明らかな知恵によって照らして解決されるのが一番いい、みたいなことが書かれている。
 僕も、はっきりしないまま、曖昧なまま書くことが多いけれど、伝わらないということかもしれない。熟成されていなければ、発することは意味を持たないし、理解されないということなのだろう。


2015年11月29日(日)
老子入門 講談社学術文庫 楠山春樹:20章:p64~70

老子の独白の文とかって書いてあったと思ったけれど、老子は、みなはうまくやっているのに、自分は鈍臭く、のろのろやっている、うまく立ち振る舞うなんてできない・ただ道を歩くのみだ、みたいなことを書いていて愚痴になっている。立派な人として登場しないで、周回遅れのビリケツとして登場していて親近感が持てる。自虐的に書かなくてもいいのにと思うけれど、格好悪く書いてある。


自己観

 僕は世間の波から外れて生きてきたけれど、そろそろ復帰したいとは思っている。そんなに自分を卑下したりしたくないし、前向きな自己観が欲しいと思っている。老荘を読んでいるのは、100de名著老子・荘子を読んだから。特に荘子に惹かれた。何か学んでやろうという魂胆から興味を持った。
主流になれなくても、4流くらいの位置にはつけたい。落っこちたまま終わりたくない。
能力も高めたい。上達したいし、活発になりたい。古い自己観に縛られたままいたいわけではない。刷新したいと思っている。

 そして道に近づき、安定した自己が欲しいと思っている。

 僕は競争したいわけではないし、勝ちたいわけでもない。自分と密になり、はっきりさせたいだけだ。旗手鮮明にしたいだけ。老荘は周回遅れの僕には心地よく聞こえる・読める。

 将来的には違う人の本に惹かれるのかもしれない。僕は倫理が好きだ。
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2015年11月27日

2015/11/27(Fri) 老子21章 

2015年11月27日(金)
老子 岩波文庫ワイド
p97~100 第21章

 ここの章はそのまま読んでも、現代語訳でも何を言っているのかさっぱりわからん。また出てきた道についてだけれど。それでこちらに頼った。以下。


老子入門 講談社学術文庫
(引用:楠山春樹:p122~125:

 十四章が感覚的に「道」をとらえようとする趣旨であったのに対して、二十一章は、瞑想的に思念することによって、「道」を探求する形の記述である。「象」「物」「精」と続く順序は、「道」のありさまを思念して、外側からしだいに核心に迫るさまを示しているのであろう。

 ところで、「道」の核心である「精」とは、「道」の霊妙なはたらきをいう。万物を生み、養い育て、また、天地間に秩序をもたらす、そのはたらきである。「精」の語義はきわめて多面的であるが、この場合、生命力・活力・エネルギーというようなニュアンスであって造化を促す精気とでもいうことになろう。~)



(引用者:kurage0147130::もっと引用したいけれど、転載になりそうだからカット。この本を読んで、少しはわかった気になる。でも、おぼろげだなあ。太極拳そのものが道なのだろうか? 怪しい理解だ。
 道はエネルギーであり、母なる大地・宙ともいうような揺りかご(どこかに書いてあったような)みたいなものらしい)




老子と太極拳 第21章 P80~82


(引用:清水豊:~「体験」の共有がなければ、タントラばかりではなく、あらゆる神秘学のテキストは正しく理解することはできないのである。~

 合気道における「攻防の象徴化」とは、攻防の究極にあるのは、対立ではなく和合である、とする植草盛平の悟りであった。攻防は対立の極みである。しかし、攻防を行おうとするならば、相手と無関係でいることはできない。つまり、攻防を反対の立場からみれば、ここに、触れ合いのあることが分かるのであり、ここに、おおいなる和合を見いだすことが可能であったのである。~)


(引用者:kurage0147130:面白い部分です。確かに戦いは相手との関係であり、倒すにしろ相手なしにはあり得ない。相手との協力がある。いくら敵と味方といえども、関係性があり、協力関係がある。おもしろい。)
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2015年11月25日

2015/11/25水・餃子を囲む日 荘子

2015年11月25日(水)
荘子Ⅰ 中公クラシックス
内篇 第2斉物論篇
6・7 p32~35

(引用:P34:
 もし、自分に自然にそなわっている心に従い、これをわが師とするならば、だれでも自分の師をもたないものはないことになる。この師は自然にそなわるものであり、あれこれと、これに代わるものを捜したすえに、自分の心が選び取ったわけのものではない。だから、この心の師は、どんな愚かなものでもこれを心にそなえているのである。)



引用者:kurage0147130:この文章は自分に贈りたい。僕は最近ずっと迷走している。心が定まらず、あやふやになっている。自分の心が師で、その心を聞き、それを大事に思い、従っていこう、尊重しようという姿勢は、いまの僕に大事なものだ。男というキーワードに向き合いきれていないというのもあると思う。抑圧者の僕は迷走・低迷し続けている。

 心に耳を傾ける、というゆっくりとした行為を大事に思い、育む、 6 の文章のように、あくせくと人生が終わってしまった、憑りつかれたまま時間が過ぎる、憑依と偏った集中と心の忘却のままに、今の僕のように、過ごすのは避けたい。心と身体の声に耳を傾けるのが太極拳なのかもしれない。
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2015年11月24日

2015/11/24(Tue)米搗(こめつ)きちゅーちゅー

2015年11月24日(火)
老子 岩波文庫ワイド
p89~96 第20章
 
 老子の言う道というのは、得る人は世間とズレてしまうのだなと思った。僕は世間とずれているので資格はあると思う。世間との折り合いが悪いというのは、折り紙つきだ。
 老子は道を得たかもしれないが、寂しい生活を送っている(世間的には)。でもたぶん、満ち足りてゆったりとして幸福なのだろうと想像する。


2015年11月24日(火)
荘子=超俗の境へ 講談社選書メチエ、蜂屋邦夫、2002 
p123

(引用:~
 道は、彼(かれ)と是(これ)とか、是(ぜ)と非(ひ)とか、あらゆる差別をそのうちに包み込んでいながら、何も差別しない。自然界の事象も人間界の事象も、細かく区別していけば、「窮(きわ)まり無い」が、そのすべてが道に包み込まれる。~
~ )


引用者:kurage0147130:区別しないというところだけを取ると、良いも悪いも全部ひっくるめ、世間的な価値観もそうでない価値観も受容し、全てがない混ぜになった混沌の世界が道なのだろうかと想像した。

 僕には差別や区別がたくさんあり苦しんできたが、全部を包摂し、受容し、混沌に触れていく、全部ないまぜの世界が道なのだろうと感想を持った。それなら理解できるし、アプローチのしようもあるというものだ。



老子と太極拳  第20章 p77~79
p79

(引用:~
 「至静」とは、動かないことではない。意識が、一定の深いレベルに入ることなのである。意識の深いレベルに入って、生成の根源とひとつになる体験を得ることなのである。~

 陰陽の視点からすれば、むしろ動いた方が、心は静を得やすいこととなる。つまり、身が動であれば、心は静となり、身が静であれば、心が動となるからである。これは「内静外動」「外動内静」ともいわれている。



引用者:kurage0147130:この章の文で、一定の姿勢で根源的な力が開かれる、と書かれていたけれど、この引用文の最後の至静で、動いた方が静を心は得やすいと書かれている。
 太極拳は心と身体の訓練みたいだな。


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2015年11月23日

2015/11/23 5 感情に乗っ取られた心と身体

2015年11月23日(月)

荘子Ⅰ 中公クラシックス
内篇 第2斉物論篇
5 p29~32


 人間の感情は湧き起って、次から次へと自分を支配する。考えも次々入れ替わり、僕は翻弄され続けている。このように僕はバカ騒ぎを毎日繰り返している。僕は僕自身の感情や考えに乗っ取られ続けている。本にあるようにそれは自分がやっていることだけれど、その支配者は誰かということ。

 これを読んでいて感じるけれど、バカ騒ぎを続けていいはずがない。やめられるならやめたい。次々やっていても、しょうがない。降りる方法はあるのか。道を見つけられれば、降りられるのか。

 支配者が誰かの前に、知らなければならないものがあり、それがわかれば支配者の姿も 自(おのず)とわかるとか。そのように書かれている。

 あまり先行きを期待していないで読んでいきたいとは思う。斉物論篇を読み終わるには時間がかかる。ゆっくりいこう。


もぐら交通機関で、
・荘子=超俗の境へ 講談社選書メチエ、蜂屋邦夫、2002 
も読んでいるので、こちらで先に答えが出ると思う。
posted by kurage0147130 at 19:54| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2015年11月22日

2015/11/22 33 44 55 続けばおもしろい・・・



2015年11月22日(日)

老子 岩波文庫ワイド
p85~88 第19章


 小細工をやめれば、世の中は良くなると。(引用:私心をへらし、欲望を少なくする、と。)

 というようなことらしいから、自分の肥大した心をコントロールして、欲望を減らすことができると言っているのだろう。


 最近僕が感じているのは、聞いたり見たり感じたり考えたりという自分の行為を大事にし、自分の活動と捉えれば、自分はしっかりするのではないかと思っている。この4つの行為は自分の活動で自分の感覚だと。ここを押えて、ここから発展できるようにいつかなれたらいいな。




老子と太極拳 第19章 p73~76

 シンプルなことが道らしいと読んで感じた。道は特別なことではなく、囚(とら)われの心がなく、簡単に世界が見えれば、近くに道はあるのかも。でもよくわからない。

 太極拳の練習はサボってばかりになっている。何とか軌道に乗せたい。10分ずつでもいいのだし。
posted by kurage0147130 at 21:11| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2015年11月20日

2015/11/20(FRI)  荘子(焼き直し)

2015年11月20日(金)
荘子Ⅰ 中公クラシックス
内篇 第2斉物論篇

 荘子の感想を書いてきましたが、よくわからず理解できないまま進んできました。




☆☆荘子=超俗の境へ 講談社選書メチエ、蜂屋邦夫、2002 

 を交通機関で読んできましたが、p106 荘子思想の核心―斉物の理論 まで来まして、僕の理解があまりに浅かったらしく、未消化のままだったらしいのがぼんやりわかりました。この本で展開されている内容が全部についてだったら良いのですが、一部しか取り上げられていないので僕の理解も限定されます。わかったことだけでも焼き直したいと思います。浅い理解ですが、もい一度振り返りたい。

・荘子=超俗の境へ 講談社選書メチエ、蜂屋邦夫、2002 
2天地自然と「心」との連関

 斉物論の1の文章について説明がなされていて、南郭子綦の放心した様子を見た顔成子游は、「先生の身体は枯れ木で心は死灰にようです」

 この枯れ木や死灰について説明が本にあって、

(引用:p104 心身共に天地自然の世界と完全に同化し、自己という枠組みを超越してしまった姿を形容している。)


(引用:p104 「忘れる(喪れる)」ということは荘子の思想のキーワードの一つであるが、それには、ただの物忘れとは違って、きわめて奥深い意味がある。~) 


ここで説明が切れている。よくわからないまま保留となっている。


そして人籟・地籟・天籟の説明があり、籟(らい)は簫(しょう)、16管の竹製の笛のことで、

(引用:p105 簫管には長短があり、さまざまな音を出すが、それぞれの管はそれにふさわしい音を出すに過ぎず、その間に優劣の違いはないということを言う点にあったのだ、と解釈されている。この解釈には、優劣の観点を持ち込んだ点でやや問題があるが、)


となっている。この引用は、郭注や成疏によれば、と書かれているので引用らしい。ここまできて、とにかく、僕が最初に受けた印象とはだいぶ違うところに来た。


2についても、説明があり、

(引用:p107 この文章は、古来、風の情景を活写した名文として有名である。確かに、なかなかのもので、荘子の時代に、こうした自然描写の文章は他にはないことを考えれば、ますます評価は高まろう。)


 荘子は、紀元前の人だった気がした(?たぶん?)。その文章が読めて、僕も参加し、何か得ようとすることは、個人的な活動とはいえ不思議な気もする。
(おわり)
posted by kurage0147130 at 20:39| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする

2015年11月19日

2015/11/19 荘子

2015年11月19日(木)

荘子Ⅰ 中公クラシックス
内篇 第2斉物論篇
p27~29


 凡人の揺れ動く姿が書かれているのだと思う。大きい人間と小さい人間(凡人)の対比で話は進む。


 物と交わるという言い方で書かれるけれど、僕は本を買うことに執着し、次々本を検索している。本当の本の活用は、読むことで買うことではない。読んでどう考えるのか、それが財産になると思う。そうすると、僕の本を検索する行為というのは、やはりこの話のように物と交わる不潔な存在と一緒だ。物・本にあくせくし、執着し、自分が使うのではなく使わされている。執着を離れるのが、道というものがわかる時なのか? 



 荘子の本のように僕は煩悩の中で、本への執着の中で、命をすり減らしている。僕は本をコントロールできていない。本の奴隷になって、あくせくしているだけだ。太極拳をやれば、道を見つけられ、欲望からも離れることが可能になるのか? それは期待していない。でも、道に近づこうと伏線を張っておくのは有効だと思う。



 僕の毎日のみじめな、煩悩まみれの、小さくつまらない日常が明るみに出るような文章だった。今日は女性の色香に執着し、まいった。
posted by kurage0147130 at 20:54| 北海道 ☔| Comment(0) | 荘子・老子の読書感想 | 更新情報をチェックする
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